一関の「二夜庵」
松尾芭蕉一行は、江戸を出発して44日目の1689年5月13日に平泉を訪れています。
一関から平泉までは約7.3㎞ですので、徒歩で2時間のところにあります。
その一関では、金森家に宿泊し、気に入ったようで、ここに2泊したことから「二夜庵」ともいわれています。
一関といえば、2011年6月から2012年3月まで、東日本大震災緊急支援プログラムを実行するために、よくここを訪れました。
東京駅から東北新幹線に乗り、一関で降りて、ここからレンタカーを借りて大船渡に向かいました。
大船渡では、昼ご飯を食べるところがなかったので、この一関駅で、私の相棒と一緒に、かれが大好きな「ウニ・カニ弁当」をよく購入して食べていました。
出張の折には、日ごろ食べることができないものをいただいて、元気を出すことを常にしていましたので、私の相棒も喜んでいました。
また、そのプログラムの実行において水沢に宿泊した場合には、東北本線で一関まで上る際に、平泉駅を通過していましたので、よく中尊寺のことを思い浮かべていました。
私が、初めて中尊寺を訪れたのは、大学院生の時代であり、たしか学会の帰りに立ち寄ったのでした。
義経堂
松尾芭蕉は、この中尊寺訪問の前に、義経堂に立ち寄っています。
その年が、義経が亡くなって500年だったこともあり、あの有名な俳句を詠んでいます。
夏草や 兵どもが 夢の跡
この義経堂は、高館の丘の上にあり、平泉随一の眺望の地であり、義経が毎日眺めていた景色でした。
芭蕉も、この景色を眺めて、義経らのことを思い浮かべながら、この句を詠んだのだといわれています。
この写真の下には、北上川が流れている様子が示されています。
さすが、東北随一の川であり、私も、一関から大船渡に向かう車道において、この川をいつも感慨ふかく眺めていたことを思い出します。
また、森村芭蕉は、この義経堂を訪れて、次の句を詠まれています。
丁度、その時、あちこちで土建工事がなされていました。
夏草や 車列乗り打つ 夢の跡
芭蕉の時代には、もちろん車はありませんでしたので、時の経過が、この句のなかに込められています。
また、民のことが詠まれていないとして、次の句も示されています。
夏草や 民は歴史の 外にあり
そして松尾芭蕉は、中尊寺を訪れ、次の有名な句を詠まれています。
五月雨の 降り残してや 光堂
これは、中尊寺の金色堂(光堂)があまりにも、金ぴかなので、五月雨も、その上には振って来なかったことを詠んだのではないかと解されているということのようですが、森村芭蕉は、異なる解釈をなさっています。
それは、金色堂の金ぴかの栄華の奥に、多くの民から搾り取った年貢の金に関する怨嗟があり、それを五月雨が回避したのではないか、という指摘であり、そのことを松尾芭蕉も意識していたのではないかという推察でした。
日光東照宮、そしてこの光堂の金ぴか、これらは、松尾芭蕉の「不易流行」とは無縁のものだったのだとおもいます。
さて、最後に、義経について、少し触れておきましょう。
一般的には、かれは弁慶らと共に、この高館において、藤原秀衡の息子泰衡によって討ち死にさせらたとされています。
このことについて、ある歴史家が、おもしろい話をされていました。
それは、義経が高館においては死なずに生き延びて、朝鮮半島を渡って、モンゴルに入ったという学説があることです。
義経は、若いころから戦においては連戦連勝を重ね、「戦の天才」といわれてきましたので、朝鮮半島においても、勝利を続け、モンゴルでは、チンギス・カンになったという壮大な逸話が語られていました。
その根拠は、いくつもあるそうですが、その講演の最後に、義経とチンギス・カンの自画像が示されていました。
なるほど、よく似ているなと思いましたので、その画像を改めて、比較して見ることにしました。
まず、右の若き義経は、なかなかしっかりした賢い顔つきであり、好人物であったことが想像されます。
目が鋭く、端正のとれた顔つきで、これであれば、誰もが好感を抱いたこともわかりますね。
左は、初代モンゴル皇帝のチンギス・カンですが、かなり年老いた時の自画像です。
義経と比較すると、目がそっくりです。
また、鼻や口の形もよく似ています。
さらには、髭の生えた様子も同じですね。
色白の義経に対してチンギスの方は、赤みを帯びていますが、これは食生活の違いのせいでしょう。
耳も、耳たぶの長さ以外は、よく似ています。
若い時は、顔に余分な筋肉がなく、頬がすっきりとして垂れていません。
一方、チンギス・カンは、やや頬が丸くなり、筋肉が垂れています。
これは、誰にでも起こる現象です。
もし、この二人が同一人物であったならば、「兵どもが夢の跡」も大きな国際的スケールのロマンになりますね(つづく)。
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