第二ルートへ
江戸深川から平泉まで、これが松尾芭蕉の奥の細道の第一ルートでした。
ここまでは東北地方の東側であり、いわば開けた都市や地域があったことから、その旅は比較的容易なものでした。
また、その各地には芭蕉の弟子や知人がいて、それらの人々とも親しく交流ができたのでした。
しかし、平泉を出て、岩出山、中山峠と進んでいくのは、その東から西へと東北を横断していくルートでした。
芭蕉らにとっては、まったくの未知の領域であり、さぞかし不安が募っていたのではないでしょうか。
尿前の関
その最初の難所が、尿前(しとまえ)の関でした。
この「尿前」とは、その関所の土地を所有していた侍の名前だそうです。
そこに、伊達藩から新庄藩(山形)に入る際に設けられた関所が設けられていました。
ここで、芭蕉らは、役人に厳しく詮議を受けることになりました。
質素な身なりで、土地のものでもなく、通行手形を持っていなかったことで、その関所の役人から、怪しいやつだと思われたのでした。
江戸では、そして、これまでの行く先々では著名な俳人であり、知人や弟子たちもいたのでしたが、この関所においては、芭蕉も一介の老人にしかすぎず、俳人として旅をしていると、いくら説明しても、簡単には信用していただけませんでした。
芭蕉らは、相当に神経をすり減らしながら、怪しいものではないと丁寧に説明し、ようやく関所の通過を許されたようです。
この厳しい詮索は、これから山越えをしていく芭蕉らに小さくない不愉快と不安を与えました。
「はたして、無事に尾沢花まで、たどり着けるであろうか?」
この尿前の関から中山峠に向かう山道は、鬱蒼と林が茂り、不気味な静かさであり、鳥の鳴き声すら聞こえてきませんでした。
森村芭蕉は、芭蕉らが歩いた当時のものが、唯一そのまま現存しているといい、松尾芭蕉らと同じように、その山道を歩いてみました。
この時の様子を、次の芭蕉の一文を引用されて語られています。
「高山森々として一鳥声聞かず」
芭蕉らは、ようやく中山越えを果たし、堺田(さかいだ、山形県最上町)に到着、ここで封人の家に泊まりました。
封人とは国境守のことであり、現在も尚、芭蕉が宿泊した家では唯一のものとして保存されています。
大きな構えの家であり、囲炉裏や床の間、土間、そして厩(うまや)まで兼ね備えられていました。
当時、この堺田の馬は、駿馬として有名だったそうで、おそらく大切に育てられていたのでしょう。
しかし、江戸で長く暮らしていた芭蕉らにとって、馬と一緒に寝るのは初めての経験だったのでしょうか、次の有名な句が詠まれています。
鑿虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)する 枕元
芭蕉らは、家のい一番奥の床の間に寝たそうで、厩の臭いが漂っていたこと、そして尿前の関での不愉快さを思い出して、誇張を含めた句を詠んだのではないか、こう森村芭蕉は推察されていました。
しかし私は、これについて、それとは異なる推察を行いました。
芭蕉らは、この家に3日間逗留されたそうです。
それは、大雨が3日間降り続いたからでした。
おそらく、その降雨量は、3日で100㎜近くになっていた可能性があります。
数10年前までは、この3日で100㎜、これが降雨災害が起こる目安でした。
しかし、今は、それが400㎜と4倍になっているのですから、どこでも大災害が発生します。
山形の近くの秋田においても、つい最近、この大災害が起きてています。
にもかかわらず、わが国のキッシーさんは、加盟国でもないのにNATOの会議に出かけてバイデンに喜ばれてうっとりしていた、みっともない顔が報じられていました。
しかも、事もあろうに、NATOの東京事務所を設けようという提案までしたのですから、完全に箍(たが)が外れています。
さすがに、フランスに反対されて、その設置はできませんでした。
のこのこNTATOの会議に出かけるのではなく、自国の災害地を訪れよ!
こういいたいですね。
少し横道に反れましたが、大雨が、3日も降り続けると、どうなるのか?
これを次のように推理しました。
蚤(のみ)、虱(しらみ)、それから、百足(むかで)、ゴキブリなど、これらの虫が、一斉に水難から逃れようと、畳の間に上がってくるのです。
乾燥した布団は、かれらの絶好の居場所となります。
これらの虫に刺されて、芭蕉らは夜眠れなかったのではないでしょうか。
馬と同居している家ですので、不衛生であり、この虫たちやばい菌がうようよしているところで寝ていたのですから、このような恨みを覚えたのではないでしょうか。
これは、不眠となった芭蕉らの抗議の句ではないか、これが私の仮説です。
この仮説は、つい最近の大雨によって、虫に刺されて数日間、その痒さに往生した私の体験も込められています。
しかし、この芭蕉の冗句ともいえる俳句が元となって、この封人の家周辺は、素晴らしい観光地になっています。
蚤や虱のおかげで、最上町は有名な観光地になったのですから、これは愉快な話ですね。
この鑿虱観光を、きっと松尾芭蕉も喜ばれていることでしょう。
鑿虱の「不易流行」、これには深い意味がありそうです(つづく)。
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