長雨
昨夜から強い雨が降り続いています。
報道によれば、今夜から明日にかけても線状降水帯がやってきて、かなりの雨をもたらすようです。
こんな日は、「各地で雨の被害がなければよいのだが・・・」と思いつつ、体も怠くなって、先ほどまで昼寝をしておりました。
おかげで、頭の方はややすっきりしてきましたが、降ってくる雨は、相も変わらず、降り続けているようです。
雨といえば、ショパンの「雨だれ」が有名です。
結核を患っていたショパンは、女流作家ジョルジュ・サンドと一緒に、スペインのマヨルカ島に逃避行します。
買い物に行った彼女がなかなか帰ってこなかったことから、雨が降っていて不安な気持ちになった時に、この名曲ができたそうです。
また、わが国では、さだまさしの「雨宿り」という名曲があります。
吉田拓郎は、この曲が素晴らしいとほめていました。
若い女性の恋物語を描いた曲ですが、きっと今日のような雨の日に、この曲の着想を得られたのでしょう。
若い男女が雨宿りをするところから始まり、恋心を抱いた若い女性が、最後には、その若い男性の胸に雨宿りをするという軽妙なストーリーが印象的でした。
さて、本日は、2023年6月の末日となり、いつものガイダンスを行っておきましょう。
「須らく雫の石を穿つ如く」
高野長英の言葉を想起しながらの下記の論文執筆が続いております。
この一歩一歩は、この言葉の響きとよく似ています。
「21世紀における高専改革の展望(Ⅰ)ー高専における実践的技術教育の足場ー」
「21世紀における高専改革の展望(Ⅱ)ー高専史における長所の形成過程ー」
「21世紀における高専改革の展望(Ⅲ)ー高専における創造的技術教育の特徴と限界ー」
それぞれ、14000~15000字の長文になりました。
今月は、新たに、その第四報を書き終え、その投稿を済ませました。
「21世紀における高専改革の展望(Ⅳ)ーものづくり精神を土台にした探究・開発技術教育ー」
今回は、これまでよりも2ページ増やして10ページ、字数も約18500字になりました。
前三報のまとめという性格を有していましたので、それだけ、力を込めた著作になりました。
たしか、この投稿を済ませたのが6月21日でしたので、そこから約1週間身体を休ませて、現在は、その第五報の執筆に取り組んでいます。
近々、それがある程度進行してきたら、その様子を紹介できるようになるかもしれません。
今の執筆状況から推察すると、来月中旬ごろには、その脱稿が可能になるでしょう。
当初は、全部で7編の予定でしたが、それが途中で8編に変わりました。
現在は、その後半に入ってきたところですが、ここまでくると、なんとなく、「論文化を進めてきた」という実感が湧いてきたように思われます。
その論文化を振り返りながら、高野長英の偉大さを思い起こすことにしましょう。
「『渡辺崋山』考(4950回記念)・崋山と長英」
今調べてみたら、先月の5月23日に、この記事を書いて以来、中断していたようですね。
渡辺崋山と高野長英は、宇和島藩の伊達宗城公との念願の面会を果たすことができました。
その折、宗城公から、そっと密かにダ・ヴィンチ工房の名画「糸巻の聖母」を見せていただきました。
その直後に、宇和島の「かどや」に集まり、反省会も兼ねた祝宴をあげるところで終わっていました。
崋山は、ダ・ヴィンチの線のない新たな画法を目の当たりにして驚嘆しました。
同じ画家でありながら、なぜ、こんなにも違うのか、改めて西洋の進んだ文化の力を思い知らされたのでした。
なぜ、このようにリアルに、そして自由に描き出すことができるのか、そのダ・ヴィンチの画法を生み出したルネサンスとはいかなるものだったのか?
幼いころから苦労して絵の修行を行ってきた崋山でしたので、その驚嘆の次には、ダ・ヴィンチ芸術への鋭い洞察をし始めたのでした。
また、その背後にあったルネサンスとはいかなるものだったのか、これについても、高野長英との議論がより深くなされるようになっていきます。
この二人の論議は、これから、いよいよ深く静かに進行していくことになります。
「老いの覚悟と生き方(4850回記念)・奥の細道」
松尾芭蕉と森村誠一芭蕉が、時を隔てて、共に松島を終えたところです。
私も、この瑞巌寺、松島の島々を見学したことがありました。
また、ある高台において、その島々を展望できるところで食事をしたことがありました。
確かに美しい光景に感激したのですが、その時には、石巻から大変美しい女性が会いに来てくださっていたので、そっちの方が気になっていました。
女優の新玉美千代さんと竹下景子さんの顔を合わせたような色白の顔立ちでした。
その彼女が大変な病気を患い、毎日光マイクロバブルの風呂で癒されているという話を聞きました。
その別れ際には、「ますます、光マイクロバブルの風呂に入って安らいでください」と励ましたことを思いだします。
あの松島よりも、彼女の方が断然美しかった、別れた後も、そう思いを新たにしたものでした。
次は、立石寺訪問、かれらの奥の細道も、いよいよ佳境に入っていきますね。
お二人の「不易流行」の句魂に分け入りながら、その旅に随行していくことにしましょう。
「追悼・久松俊一先生」
すでに19回を終え、大変長い連載になりました。
この追悼文を認めたのが今年の初めでしたが、それがきっかけとなり、弾みとなったようで、上記の論文執筆が、なぜか、すいすい(?)と進むようになりました。
きっと、それも久松先生のおかげなのでしょう。
深く感謝申し上げます。
しかし、それも、いよいよ最後の段階にまで到達してきています。
今思い起こしても、久松先生は、優れた高専論者であり、二人といない、よき討論者、論争者でもありました。
あるとき、新幹線のなかで、私のパソコンが電池切れになりそうな時に、慌てて舌足らずのメイルを送信したことがありました。
それが、本意から反れていたことから、あとで訂正したのでしたが、その軽率さを批判されたことがありました。
今となっては、これもよき思い出といえますね。
上記の論文は、真っ先に先生に読んでいただき、それを糧にして議論を闘わせたかったですね。
おそらく、世代が違うからでしょうか、現役の方々には、いささか違和感があるのでしょうか?
打てば響く、という具合になるには、今しばらくの時が必要のようですね。
いよいよ、この記事も最後のクライマックスに突入していきますので、久松先生、どうかよろしくお願いします。
スナップショット「凱風快晴」
作家の森村誠一さんの勧めもあり、写真俳句を掲載するようになりました。
俳句は素人ですので、その実行には逡巡と恥ずかしさを覚えていたのですが、すぐには、俳句の能力は向上しないものだ、それでもよいので、とにかく、恥を忍んで掲載していこうと一念発起することにしました。
単に写真だけだと、その時の思いがよく伝わらない、そこに俳句を添えると、写真と俳句が相乗するようになり、たしかに、その思いが伝わっていく、とおもえるようになりました。
「森村さんが、いっていたのは、このことだったのか!」
そう思うようになり、すっかり気に入りました。
未だ俳句力は、初歩の初歩ですが、上記の奥の細道に随行しながら、二人の芭蕉の俳句を学んでいこうと思っています。
よい写真を撮って、ひとつ俳句を捻る、これも、ここちよいですね (つづく)。
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