追悼・久松俊一先生(15)
 
 前記事からの続きです。  
 
 以下は、久松俊一先生の追悼文の最後の節です(青字の部分)。

 第二は,先生が学生から「ペリー先生」と呼ばれていたことでした.なぜ,そのように呼ばれていたのかを尋ねると,ペリーの黒船のことを1年間ずっと講義をしていたことから,「ペリー」,「ペリー先生」と呼ぶようになったそうです.そう聞いて,本当に1年間ペリーに関することを講義されたのですかと訊いてみたのですが,その答えは「否」でした.どちらが正しいのか,未だによく解っていません.

 第三は,創立10周年記念の行事として,財政事情がよくなかったことを改善するために,募金活動を行った時のことです.先生は,丁度退官をなさっていて,その退職金からポンと50万円を寄付してくださいました.会長の私としては,「これで弾みが付きました.ありがとうございました」と礼をいうと,先生は,こういわれました.

 「日本高専学会に寄付できて光栄におもいます.その金を少しも惜しいと思ったことはありません」

 これによって,この募金活動は弾んでいくことになり,目標額を超過達成することができました.

さらに,本学会は,日本混相流学会との共催でマイクロバブルに関する技術シンポジウムを開催し,その収益金を特別会計として計上ができました.これで,その屋台骨が折れずに済みました.

 第四は,いつもスーツにネクタイの姿で端正でダンディであり、話好き、人好き、酒好きでした.

最後に,上述の『改革プラン』に示された第三の提言に触れておきましょう.高専ネットワークの形成,日本高専学会の誕生と発展は,高専と高専教育の揺るがない発展に小さくない貢献を果たしてきました.それは,高専が築いてきた長所を最高度に生かした,そして必然の帰結としての「高専大学」です.  

この実現が互いの「宿題」として残りましたね.

どうか,来世においてもご考究を念願いたします.


ペリー先生


 2つめは、この「ペリー先生」の逸話に関することです。


 長野県の阿智村で開催された小集会に、久松先生と一緒に参加された卒業生がおられました。


 そのかれが、久松先生のことをしきりに「ペリー先生」と呼ばれていました。


 なぜ、そういうのかを尋ねてみました。


 ペリーとは、黒船でやってきたペリー提督のことであり、そのペリー来航のときのことを1年間講義でしゃべっていたから、その綽名(あだな)が付いたというのです。


 ペリーのことを1年間講義し続けた、なるほど、久松先生らしいことだと、ある意味で感心したのでした。


 たしかに、この頃は、井伊直弼、阿部正弘、吉田松陰、高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬などが活躍した時代であり、それらを教材にするにはもってこいの豊富さがありますので、これらを1年間に亘って講義しても、それが尽きることはありません。


 高専には、学習指導要領なるものがありませんので、自由に授業を行っても、それが問題になることはありません。


 ここが、専門高校と高専の小さくない違いといえます。

 後に、久松先生に次のように尋ねてみました。

 「学生のみなさんが、先生のことをペリー先生と呼ばれていたそうですね。その学生がいっていましたが、そのペリーのことを1年間に亘って授業したのですか?」

 そう聞かれ、先生は、少し驚かれたような表情になって、

 「そんあことはありませんよ!」

と回答されました。

 それ以上のことは尋ねませんでしたので、どちらが正しいのかは、未だに決着がついていません。

 学会を救った

 久松先生は、日本高専学会を救ってくださった「恩人」といってもよいでしょう。

 私が、日本高専学会の会長に就任した時に頭が重かった問題が3つありました。

 それらのことを、どうしようかと考えると、その就任を素直に喜べず、沈みがちになっていたからでした。

 その第一は、年会の不振状況でした。

 富山、松江と年会の地方開催を実施したものの、そこへの参加者が思いのほか少なく、低調に終わっていたからでした

 そこで、年会は、関東、関西の都市、そして会員数の多い高専に限って開催することを決意し、理事会でその提案を了承していただきました。

 その手始めが、木更津年会であり、約1000名以上の参加者を得て成功へと転じることができました。

 第二は、日本高専学会の理論的水準を高めることでした。

 これには、すでに述べてきたように、久松先生が非常に重要な役割を果たしてくださって、今日の水準が形成されてきたのだ思います。

 第三は、当時の日本高専学会の財政赤字が膨らんでいて放置できない状況になっていたことでした。

 理事会を開催しても、旅費を支払うことができていませんでしたので、事態は深刻でした。

 あるとき、その旅費のことで、事務局長(U高専のY先生)とある理事がやり合っていたことを耳にしたこともありました。

 この状況をなんとか打開しなければならない。

 こう思って、日本高専学会10周年記念事業の一つとして募金活動を行うことを理事会に提案し、認めていただきました。

 その理由は、真正面から取り組まなければ、到底改善できない赤字財政に陥っていたことにあり、これ以上、旅費すら払えない理事会を継続して開催するわけにはいかない、と決意したからでありました。

 それまでは、この赤字を密かに改善しようと思って、親しい企業に広告をだしていただいていましたが、それでは間に合わなくなっていました。

 もちろん、日本高専学会においては、このような募金活動は初めてのことでしたので、それに違和感を覚えられた方も少なくありませんでした。

 しかし、理事会で了承されたことでもありましたので、これを粘り強く続けて行こうと思っていました。

 この問題で厄介だったことは、それを私が言い出したことことだったことで、自分が「このように募金を得ました」と最初から披露することができなかったことでした。

 歴代会長や役員に、この募金をお願いしましたが、当初の反応は芳しいものではありませんでした。

 なかには、学会で募金活動をすることなど、とんでもないことだといわれる方もおられました。

 しかし、ある記念行事のために募金活動を行うことは、他の学会においても普通に行われていることでした。

 ここで、幸福の女神が微笑んでくれる出来事が起きました。

 それは、久松先生が、退職金のなかから、ポンと50万円を寄付してくださったのです。

 そして、上記のような発言を寄せてくださったのでした。

 これは、絶好のチャンスが訪れたと思って、関係のみなさんに、再度呼びかけ、この募金活動を積極的に推し進めました。

 私も、密かにあの手この手を使って募金活動を遂行していきました。

 そして、この募金活動を飛躍的に発展させたのが、マイクロ・ナノバブル技術シンポジウムの開催でした。

 これは私が、実行委員長となり、神戸、東京、名古屋で3回開催されました。

 当時、私は日本混相流学会の理事もありましたので。このシンポジウムを日本高専学会と日本混相流学会の共催としました。

 このシンポジウム開催は、非常に評判となり、たくさんの参加者を集めることができました。

 当然のことながら、その収益金をたくさん得ることができましたので、両学会に平等に分けて納入することができました。

 この両学会は、かなり財政的に厳しい状況にありましたので、相当に喜ばれました。

 おそらく、日本高専学会へ納入された分だけでも数百万円はあったのではないでしょうか?

 おかげで、この募金活動は、目標を超過達成することで終了することができ、お金のことを心配せずに学会活動を行う基盤整備がなされたのでした。

 これらによって、日本高専学会の財政事情は一挙に改善し、その時に、その余剰金を特別会計として計上したのでした。

 困ったときや、何か特別の支出の時しか使用しないこととしての措置であり、今でも、その特別会計における計上がなされています。

 久松先生、この時は、日本高専学会を救っていただき、本当にありがとうございました。

 おかげで、日本高専学会の屋台骨が折れてしまうことを防ぐことができました。

 次回は、『私たちの高専改革プラン』において提言された「高専ネットワーク」と「高専大学」の問題に分け入ることにしましょう(つづく)。

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紫陽花(前庭)