追悼・久松俊一先生(13)
前記事からの続きです。
以下は、久松俊一先生の追悼文の続きです。
(3)論文審査委員会
先生には,副会長の後に,新設の論文審査委員会の責任者になっていただきました.この新設のきっかけは,学会誌編集に関わるトラブルがあり,さらに編集委員会における査読作業を軽減する必要があったこと,さらには,年4回発行のひとつを論文特集号にして活発な論文投稿を促すことをめざすことにありました.
この審査活動を開始すると,さまざまな問題に出会い,議論が幾度となく沸騰しました.なかでも,なぜ,論文査読を行うのか,その基本は何かという基本に戻っての激しいやり取りがなされました.
ある時,投稿論文の掲載可否において意見が分かれたことがありました.私の意見は,論文の書き方には未熟性が認められるが,それは投稿者が論文を書くことにおいて慣れていないからであり,それを投稿者と一緒になってよい論文に仕上げていくことが大切ではないかというと,そこまで「やる必要がない」といわれ,互いに譲らぬ大議論になりました.そして,この議論の最後に,先生は,この論文を改善していくなかで投稿者を育てていきましょう,とみごとな決着を示されたのでした.
久松先生を中心に技術者教育研究所における理論的活動が発展し、日本高専学会の重要な柱が打ち立てられていくようになりました。
また、年会に少なくない会員のみなさんが講演発表してくださるようになり、そこで活発な討論がなされるようになりました。
10周年記念の木更津年会の盛況が弾みとなり、その発展が定着し始めたと認識できるようになりました。
さらに、年会発表者のなかから優れた講演者に論文投稿を推薦するという方式が上手くいって、かなりの数の論文投稿が得られるようになりました。
その結果、投稿論文が少なくて発行できなくなるということは杞憂に終わりました。
以前ですと、毎回の学会誌における投稿論文は1編程度でしたので、1年間で4編でした。
ところが、1回の論文特集号の掲載論文は20編を越えるようになりましたので、その5倍化以上が実現されたことになりました。
そこで、上記のように論文審査委員会を発足させました。
初代委員長として、久松俊一先生にお願いしました。
私も、審査委員として入り、事務局長にK高専のY先生、ほかに2名の委員に委嘱し快諾を得ました。
早速、全国の高専において、有力な方々に査読委員をお願いし、査読委員リストが作成されました。
論文の審査は、主査1名、副査1名、委員1名の3名で行われることになりました。
その審査結果は委員会に報告され、その都度、その審査結果の審議を行い、さらに、修正意見や審査委員会のコメントを追加して、投稿者に査読結果を返送しました。
この審査において、査読委員および審査委員会内で、審査の結果において、「掲載可」か「不可」かで意見が分かれることがありました。
なかでも、その論文投稿者が、専攻科生や高専生の場合において、どう査読を行うかに関する基本的姿勢が問題になりました。
かれらのほとんどは、学会論文を書いたことがない方ばかりですので、それに審査委員会がどう対応するかが問われたのでした。
私は、自分が未熟な時に、厳しい査読を受けたことがありましたが、しかし、それを何度も繰り返して行うなかで、査読者の心情が解るようになりました。
その主査の先生は、「この方は、論文を書いたことがない方のようで、副査の先生に厳しく査読していただくように依頼し、それでよい論文になった場合には掲載することにしました」と、後になっていってくださいました。
この時のことが忘れられずに、査読は厳しく、しかし、互いによい論文に仕上げて、それが可能になった場合には掲載可とする、「久松先生、この基本姿勢で行きましょう」と提案し、久松先生は、それを快く賛同してくださいました。
しかし、そうはいっても、ダメなものはダメという、査読委員の意見もあり、とくに査読結果が著しく別れた場合には、それをどう審査するかを、論文審査委員会において慎重に検討することが何回かありました。
今でも、印象深く覚えているのは、若い高専教員ではない会員が投稿した論文において、その可否が別れたことがありました。
主査は掲載不可、委員は掲載可という結果になり、それをどうするかについて私が担当することになり、その時、かなりの量において論文を修正すれば、掲載可能ではないかという審査結果を委員会に報告しました。
当然のことながら、主査の結果を否定したのですから、喧々諤々の議論になりました。
久松委員長は、その議論を黙って聞いておられましたが、それぞれの意見が出尽くしたところで、次のように裁定されました。
「主査が指摘しているように、論文としてはかなりの問題がありますが、それらをきちんと修正していただくことを踏まえて、これを掲載可とするのはどうでしょうか。その修正ができるかどうかを確認しましょう」
その旨を論文審査委員会の意見として追加して送付しました。
この投稿者は、論文審査委員会の結果をよく理解されたようで、その指摘に従って、何度かのやり取りを行い、大幅な修正をしてくださいました。
これでめでたく、その論文の掲載がなされました。
その後、この会員は、積極的に日本高専学会年会に参加し、論文を投稿するようになりました。
学会は、研究することのみならず、研究者を育てるところでもありますので、よい思い出と恩返しになりました。
久松先生、この裁定はみごとでした(つづく)。
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