追悼・久松俊一先生(11)
木更津の「かずさアカデミアホール」で開催された日本高専学会10周年記念の年会・講演会は、約1000名を超える参加者を得て、小さくない成功を修めることができました。
この成功は、私たちのとって初めての貴重な体験となり、学会全体の活動の発展における重要な弾みとなりました。
とりわけ、次の3つの特別・記念講演は、その支柱を成すものでした。
①森政弘先生(東工大名誉教授)
ロボコンの提唱者であり、その創造的技術教育の重要性を直に示された方であり、その具体的なエピソードを解りやすく話していただきました。
また、この時、一緒に「映画ロボコン」の上映もなされました。高専を舞台にして、このような映画が上映されたのは初めてのことであり、その後もありませんでした。
その多くは、ちびっこの夏休み工作やロボコンの映画や記念講演への参加者でしたが、これによって日本高専学会の裾野が大きく広がりました。
②佐藤浩先生(東大名誉教授)
「100年間、語り継がれる名講演をよろしくお願いします」、これが、先生に記念講演を依頼したときにお願いしたことでした。
先生は、国の基本にかかわる、科学技術、経済、思想に関する重要な指摘をなされました。
最後に、「君が代」の話になり、「さざれ石は、絶対に巌にはならない」、「このように非科学的なことを国家として歌うことでは、科学技術立国は危うくなる」といわれていました。
その話で終わろうとして、司会者に、講演の残りの時間を尋ねられました。
「後、30分あります」と答えられ、先生は、一瞬困った表情になりました。
講演時間は60分でしたので、2倍の速度で講演を続けたことから、その半分で終わることになってしまいそうになったからでした。
いつもは、正確に講演時間を守って話されていましたので、これはまさに珍事が起ころうとしていました。
さすがに、先生は、ここから話を繋げて、残りの30分を立派に使って「大講演」をなさったのでした。
おそらく、早く話を進めすぎて、「あれっ、困った」という表情を読み取ったのは、私だけであり、他の方々は、少しも気づかなかったようでした。
先生とは、このことが、後に語り草になりました。同時に、ここから始まって、全国各地で私と一緒に講演を行うことになりました。
➂碇山みち子先生(東京大学工学部技術職員)
彼女は、都城高専出身であり、その後、図書館情報大学の技術職員を経て、東京大学の技術職員として勤めておられました。
御主人は、東工大助教授でしたが、若くして亡くなり、二人の子供を立派に育てながら立派に仕事をなされた方でした。
その見事な、そして立派な生き様は、高専卒業生の鏡のような存在でしたので、それを晴れ舞台で披露していただこうと思い、理事会に提案して、この大抜擢をみなさんに承諾していただきました。
彼女は、立派にその要請に応えて、素晴らしい講演をなさっていました。
その時に、またしてもハプニングが起きました。
苦しい生活のなかで、必死になって子供たちを育ててきたという話になったときに、感極まられたようで泣き出してしまわれました。
特別講演の途中で泣き出してしまうという光景を見たことはなく、私たちも、泣かされてしまいました。
この「涙の名講演」は今でも脳裏に鮮やかに刻まれています。
これを契機にして、1年に2回、互いに地域の名物と手紙を送り合う仲になり、それが今も続いています。
「久松先生、この10周年記念年会・講演会の成功を糧にして、日本高専学会の理論水準をより高めていきましょう。
つきましては、『技術者教育研究所』をいよいよ創設する時期がやってきたと覆いますので、先生に所長になっていただきたいのですが、いかがでしょうか。
私は、その事務局長として、先生を支えますので、よろしくお願いします」
この時のことを、久松俊一先生の追悼文において、次のように記しました。
第二は,日本高専学会としての活動の幅を広げていく課題でした.当時は,年1回の夏場の年会だけの開催だったことから,その半年後の冬場に連続シンポジウムを設け,定着させることをめざしました.そのために,副会長の先生に技術者教育研究所の所長も兼ねていただき,これを核として学会全体の理論水準が徐々に向上していきました.こうして,このシンポジウムは,これまで第28回を重ねています.
第三は,小さくない赤字に陥っていた学会財政を創立10周年記念を契機として共に尽力し,一挙に改善することでした(詳しくは後述).
(2)技術者教育研究所
久松先生と私は,学会会長と副会長という関係にありながら,技術教育研究所においては所長と事務局長という間柄でした.一見奇妙な関係とおもわれがちですが,二人にとっては何の違和感もありませんでした.それは,二人とも,日本高専学会と高専全体の技術者教育に関する高度な探究をめざしていたからだとおもいます.
この間,専科大学創造,『高専の振興方策』後の実践的技術者教育のあり方,新たな高専アイデンティの探索,独立行政法人化問題,一般科目における教養教育問題,JABEE受容など,さまざまな討議を行い,互いに刺激を供与し合いました.
このように久松俊一先生とのコンビが、車の両輪のように上手く回転し始めたことで、日本高専学会の理論的水準は、徐々に向上していきました。
すなわち、高専教育に関する自主的研究の流れが形成され、それが具体的に実を結ぶようになり、その流れの質が変わり、拡大し始めたのでした。
この技術者教育研究所創立問題を議論したときに、学会が、付属の研究所を持つことは考えられないことだ、財政的にも負担になるのではないかという、やや否定的な意見が出されていましたが、実際に、活動をしてみると、それらの危惧は的外れであったことも確かめられました。
惜しいことに、現在は、この技術者教育教育研究所が廃止されたままになっているようですが、この時の活動の成果を想いだされて、その復活を遂げる時期が来ているように思われます。
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