最初の推敲

 昨年末から,前職場への最後の恩返しと思って,一連の論文執筆を続けてきました.

 その第一報と二報は,ほぼ2か月を要して投稿を済ませました.

 また,次の第三報の草稿をほぼ書き終え,その最初の推敲に入りました.

 いつものように,これを行ってから,結論と和英文の要約を仕上げることにしています.

 さて,その草稿の推敲についてですが,この段階では,それを印刷して紙原稿にしてから朱筆を入れて修正していくという方法を採用しています.

 パソコン画面上では,画面に映っている限られた文章に目が奪われがちなので,全体をよく観ることができません.
  
    昨夜は,その印刷された紙の草稿を風呂に持ち込んで推敲を始めたので,それを手渡ししてくれた家内が呆れかえっていました.

 私は,風呂でも,どこでも,やりたいことができればよいという主義なので,それを持ち込むことには何も抵抗感を覚えないのですが,彼女にとっては,それが非常識と映ったのでしょう.

 こうして草稿の朱入れをし始めたのですが,あまりにも,修正箇所が多すぎて,途中で朱書きの余白が無くなって途中で止めてしまいました.

 それほどに,未完成の未熟な草稿であったことから,その修正を余儀なくされたのは自分の至らぬせいであり,そのわが身を反省しながら,早々に出浴しました.

 なぜ,こんなにも朱筆の修正箇所が多いのか,その原因を考えてみました.

 もちろん,その主因は,自分の執筆の拙さにあるのですが,それを除くと,論文の書き始めと,その草稿を書き上げた時点とでは,その論理の積み上げ度がかなり差異があることに気づきました.

 私の場合,その準備段階においては,必要なメモを用意しますが,いざ書き始めると,ほとんど何も見ずに執筆していきます.

 そうすると,その途中で全体がよく観えなくなることがあります.

 その時には,ノートに全体骨子を記しながら,その構成を検討します.

 そして,それが定まると再び,何も見ずに書き進めます.

 また,その際の文章は,関係のあるフレーズをどんどん書き込んでいきます.

 論旨は,当然のことながら,あちこちに飛び,重複もあり,正誤も混じったものになります.

 そして,それが終わると,そのフレーズを基にして,きちんとした文章化を行うという作業に入ります.

 この方法は,論文全体においても適用されますので,その書き始めの問題意識や文章そのものが,ある程度充実させて書き上げた後半部分とはかなり異なっていて,そのために,時には重要な観点が反映されていないこともありうるのです.

 この全体を俯瞰すれば,前半は拙く,未熟であり,それでも書き進めていくと後半になって,その拙さと未熟さがより改善されて,益しになっていくという傾向にあります.

 現在の草稿の推敲に時点では,その後半のより改善された内容が反映されていますので,当然のことながら,その前半部分については修正の朱筆量が増えることになります.

 しかし、この草稿が朱筆のために真っ赤になっても,それは論文をよりよくするために避けては通れないことですので,いくらわが身の未熟さを痛感しても,それを乗り越えて修正を繰り返していくしかないのです.

 実際には,この朱入れの部分を見ながら,パソコンの画面上で修正を行っていきますが,そこでまた第二次の推敲を行い,よりよい文章に仕上げていきますので,結構な時間と労力を要する作業になります.

 そして,この第二次推敲が終わると,第三次へと向かいます.

 ここでは,論文全体の起承転結の相互関係を見直し,読者によりインパクトを与えることができるように工夫します.

 まず,文章の流れにおける整合性をアップしていきます.

 たとえば,緒論において指摘した重要なフレーズが,本文や結論にどう生かされているか,あるいは,キーワードの相当するものが,本文のなかでどう生かされ,有機的な関係として生かされているかを細部にわたって検討します.

 これが終わると,第四次の仕上げの推敲に入ります.

 ここでは,私が重要と思って執筆した核心部分を,いかに読者にインパクトを与えて理解していくか,これに焦点を絞って,その該当部分を大胆に,そして細心の注意を払って,井上ひさし流にいえば「ふかいことをおもしろく」仕上げていこうと努力します.

 これを終えて,最後の第五次の推敲として,全体を読み返し,脱稿,投稿へと進んでいきます.

 こう考えると,まだまだ,かなりの作業が残っていますが,私に言わせれば,サッカーでいうアディショナルタイムに入ったようなことに相当しますので,その試合を早く終わらせようと思って,最後のひと踏ん張りを行うという,ある意味で楽しい時間帯なのです.

 なぜなら,この作業は確実に前に進んでいくことなので,そして、それによって確実により確かに仕上がっていくことなので,あれこれを思い悩んで彷徨うよりははるかに建設的だからです。

 おそらく,ここで手を緩めなければ,予定の今月中か来月早々に投稿に至るでしょうから,それを「やり遂げる」と,ようやく道半ばに達したといえるのかもしれませんね.

 第三報から第四報へ
 
 ここで一休みせずに,次への執筆の準備を始めることが肝要です.

 それは,この第三報で執筆するはずだった「創造的技術教育の特徴と限界」に関する後半の,ある意味で核心的部分を紙数の関係で,次に譲ったことから,その主要な課題のみを示し,その構想がある程度でき上った状態になってだけに留まったことと関係しています.

 全体としては,この第一報から第三報を三部作として仕上げるつもりでしたが,それでは収まり切れずに,次の第四報を加えての全四部作になるのなと思っています.

 なぜ,ここまで疾走できるのか?

 自分でも,それを不思議におもいますが,おそらく,それは自分が求めていたものに近い「重要な何か」があるのではないかと推測しています.

 まだ少し早すぎますが,それでもあえて私の思いを吐露しておきますが,この一連の執筆活動を終えた暁には,そのテーマを「光マイクロバブル」に切り替えていこうと思っています.

 その「プロローグ」として,本高専シリーズにおいては,その第五編において,なぜ,光マイクロバブルが高専において生まれ発展していったのかを考察する予定です.

 今の調子では,その執筆は,真夏の頃になるのではないでしょうか?

 乞う,ご期待,私も楽しみです。

 この記事の執筆でややリラックスしましたので,これよりは,はるかに厄介な推敲に戻ることにしましょう(つづく)。

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沖行く船(豊後水道,国東市来浦海岸)