追悼・久松俊一先生(3)
前記事からの続きです。私の追悼文の第三節を示します。
3. 源流は「私たちの高専改革プラン」注(1)
とくに,先生とは,本改革プランが示した3つの提言について集中的な議論を行いました.その3つの提言とは,①全国的な高専ネットワークの形成,②高専教育学会の創設,③高専大学構想(詳しくは後述)に関することでした.
周知のように,①については,高専が独立行政法人化され,「高専機構」が誕生するとともに,その全国ネットワークが整備されました.これによって,その改革プランが指摘した,個別高専から全国的高専への指向がなされるようになり,より一層の教育研究の発展がなされるようになりました.
②については,1994年に「日本高専学会」の創設という「快挙」に結び付きました.これに関しては,そのプロジェクト内で行われたエピソードを少し披露しておきましょう.
じつは,この「プラン」をまとめ上げる際には小さくない苦労があり,そのバラバラな内容のあまり,少なくないメンバーが,「もう,まとめ上げるのは無理ではないか!」と思っておられたそうでした.わたしは,そのように感じてはいませんでしたので,集まったくさんの原稿をすべて読み直し,それを粘り強くまとめ上げました.その際に,まとまらない大きな理由として存在していた荷が,その「3提言」であり,この具体的な提示ができないままに,最終的なプロジェクト会議が,広島の中電コンサルタントの研修室で開催されました.
そこでは,集約した,それぞれの文書の検討は上手く進んでまとめられたのですが,案の定,その提言については,みな頭を捻ってばかりで,何も良いアイデアが出ないままに2泊3日の最終日の朝を迎えました.そのまま解散か,と暗雲が漂っていたのですが,ふと,私の頭のなかに次のアイデアが浮かんできました.
「これだけ,みんなで考えてみても,よいアイデアが浮かんでこないということは,どういうことであろうか?それは,私たちが,高専の未来像を豊かに描くことに長けていなかったからではないか!そうであれば,それを研究する組織を自分たちで創ればよいのではないか!」
こう思って,
「みなさん,私たちで,高専のことを研究する学会を創るのは,どうですか.みんなで学会を創りましょう!」
こういうと,最初は,みなさんポカンとされていて,なにも言葉を発せられませんでした.しばらくして,その意味がお解りになったのでしょうか,「そうだ」,「それはいい」という声になって全員の賛同に至りました.
これが,日本高専学会誕生のきっかけであり,源流におけるエピソードだったのです.
少々引用が長くなりましたが,この『改革プラン』の発行,木更津での教育研究集会での高評価と賛意を得て,日本高専学会の創設へと発展していったのでした.
注(1)全国大学高専教職員組合・高専協議会:『私たちの高専改革プラン』,1994.
日本高専学会は、この『改革プラン』によって提案され、そのプロジェクトチームのメンバーが中心になって「呼びかけ人」が集まり、日本初の教職員組合が提案した「学会」が誕生したのでした。
久松先生は、その呼びかけ人の一人になっておられました。
さて、このプロジェクトチームは、1992年に結成されました。
3回の、のべ30時間にわたる会議と討議を経て、『私たちの高専改革プラン』の中間報告書が1993年10月に出されています。
これは、9名のメンバー全員が、それぞれの個別のテーマにおいて、同年3月に開催された有明高専での同協議会主催の教育研究集会における議論を踏まえて、それぞれが、次の項目においてまとめられています。
①高専30年の総括、②高専の将来問題、➂「人口減少」、「高学歴化」と高専、④国民の要求に根ざした高専作り、⑤高専における教育と研究の在り方、⑥高専における地域協力と高専教育の課題、⑦専攻科について、⑧商船高専の80年代、そして90年代、⑨高専制度30年の歴史にたって
これらは、個々に優れた探究がなされていたものの、これらを、どう最終報告書としてまとめ上げるのか、そして最後にどう「提言」を示すのかにおいて、いくつもの壁が存在していました。
私は、このチームの副委員長のポストにあり、その役割は、その壁をどう突破し、どうまとめるのかを考え、提案することにありました。
そのために、まず、それまでの会議が一泊二日で行われていたために、いつも議論が沸騰したところで帰りの時間を気にするという具合になっていましたので、これを何とか改善したいと思って、二泊三日案を提案しました。
そしたら、これはすんなり賛同をえましたので、次に、とことん籠って議論をする必要があると思って、大学の同級生がいる中電技術コンサルタントの寮研修所を選びました。
ここは、広島市丹奈という小高い丘の上にあり、この南側には宇品港が見えていました。
この丘のおかげで、宇品港付近の住民のみなさんは被爆を免れました。
「これで、存分に議論ができる。『改革プラン』をまとめよう、提言も出せるようにしよう!」
こう思いながら、上記の中間報告の個別の内容を、どう一つにまとめていこうかと作業に取り掛かったことを思い出します。
すでに、このメンバーの中には、これをまとめ上げることはできないとまで言い切る方もいいたほどで、たしかに、この九つの論文を一つにまとめて洗練させることは容易なことではありませんでしたが、それでも、諦めて投げ出すほどのものでもなかったのでした。
それぞれの論文を読み込み、それが困難な原因を突きとめました。
1)たしかに、高専30年の総括はなされているが、その本質を要約した文章がない。
2)高専を大学化することによって自治と研究を取り戻すしかない、という主張と、高専を大学化するのではなく、高専を民主化して改革するという主張が対立して、それを止揚できていなかった。
3)高専に専攻科を設置することは、高専制度の問題をより深刻化させる二重の誤りになるのではないか。この意見に対して、専攻科設置は、高専の高度化において必要なことであり、その実現によって高専を改革していくことが可能になる、また、専攻科設置に関しては、高専生と保護者の意見を聞くことが重要である、という意見が対立していた。
4)高専教育においては、それぞれの学年ごとに到達目標を明らかにし、同時に、その目標に対応した「高専生の持ち味」、「克服すべき否定的側面」の3つを示す必要がある。
この4点を明らかにしながら、9つの論文の長所を全面的に活かして、より洗練された「たたき台」の文章を示したことで、その討議と修正が割とスムースに行われました。
議論が沸騰、そして紛糾
ここまでは平穏でしたが、その後半戦の「提言を示す」ことにおいては、案の定、議論が、上記の1)~3)に関して再び沸騰し、紛糾していきました。
二日目の昼から、そして夜遅くまで、その検討が続きましたが、それが収束に向かう気配はありませんでした。
この場に、久松俊一先生がいたならば、もう少し異なった議論になっていたかもしれませんが、残念ながら、かれは、この場にいませんでした。
この「3提言」については、非常に重要な内容を有していますので、次回においてより深く分け入ることにしましょうに(つづく)。
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