追悼・久松俊一先生(2)
前記事からの続きです。
私の追悼文における第二節において、次のように認めました。
2. 久松先生との出会い
最初の出会いは,全大教高専協議会における教育研究集会が木更津で開催された時でした.
その時に,私も参加していたプロジェクトによってまとめ上げられ,初めて発表されたのが『私たちの高専改革プラン』1)でした.
この文書は,当時の優れた高専教員の英知を集約させた,いわば高専に関する歴史的報告書となり,その後に小さくない影響をもたらすことになりました.
この時,久松先生は,この「改革プラン」の内容を大いに評価されていて,それについて,夜遅くまで,先生と私たちプロジェクトのメンバーとの議論を行ったことを覚えています.
「木更津高専には,こんなに豪快な先生がおられたのか!」
と,小さくない感慨を抱きながら,大変うれしく思いました.
1)全大教高専協議会:『私たちの高専改革プラン』,1994.
「全大教」とは、全国大学高専教職員組合の略称であり、「高専協議会」は、その下部組織でした。
この教育研究集会が開催された年の、たしか約3年前に、全国高専教職員組合協議会が、「全大教」に組織合流して、この協議会として再スタートしたのでした。
私は、その組織合流を行った時の中心メンバーの一人でしたが、最初は、ほとんどの方が、組織合流なんか無理だ、と思われていました。
しかし、そこから出発して、丁寧に科学的議論を積み重ねていくことによって、徐々に変わり始め、最後には、多くのみなさんが賛同するようになっていったことは、まさにドラマであり、いまでも、その時のことが脳裏に浮かんできます。
組合というと、なかには気嫌いをなされる方もいるかと思います。
あるとき、K高専において組合を結成したいと希望されていた先生に会いに行ったことがありました。
互いに丁寧に、その情報交換を行うことができて、その限りにおいてはよかったのですが、その別れ際に、かれは、私の論文を見せて、その参考文献のところに、私が、組合の文献を掲載していたのを指さして、「これが好ましくない」という主旨の指摘を行いました。
その組合関係の文献が掲載されていると、警戒され、信用されない、というような意味のことを仰られていました。
それを聞かされて、唖然としたままで、私は、何も反論しませんでしたが、そこに根深いものがあるなと思いました。
木更津での教育研究集会は、たしか古い旅館で開催された記憶があります。
当時の木更津高専教職員組合は、比較的少数の組合員でしたが、そのなかで奮闘されていたのが久松先生でした。
ここでのメイン教材として提出されていたのが、『私たちの高専改革プラン』でした。
当時の有明高専S先生が、この協議会の議長をなされていて、その下で集められた9名が、その英知を集めて作成した34頁にわたる文書であり、その後に与えた影響を考慮すると、歴史的文書といってもよいものでした。
このメンバーと懇談しているなかに、久松先生が入って来られ、その改革プランの内容について議論が始まり、それが深夜にまで及んだことをよく覚えています。
その詳しい内容までは記憶していませんが、たしか、久松先生は、次のようなことを仰られていました。
①高専をめぐる情勢が科学的に把握され、整理されている。
②高専における教育問題について、これほど深く、系統的に考察された文献を見たことがない。
とくに、1年生から5年生までの、到達目標、高専生の持ち味、克服すべき否定的側面の3つを一覧表として示したことを非常によく評価されていました。
➂また、このプランのまとめとして提示された「3提言」についても大変喜ばれていました。
この3提言とは、個別高専に留まっていた情報を全国的に交流可能なネットワーク化を発展させること、高専教育を研究する学会を創立すること、高専の長所を最大限生かした「高専大学」をめざすことでした。
この議論の中で、上述のように「木更津高専には、こんなに素晴らしい豪傑がいたのか!」という強い印象を与えてくださいました。
そして、この議論をきっかけにして、久松先生との共同の「高専研究」が開始されたのではないかと思われます。
この「共同」は、非常に、ゆるやかなものであり、それぞれの立場を認め合いながら、自立しながら、互いの発展をめざすという形態でした。
しかし、私は、この教研集会が開催された約半年後の1994年10月に、ドイツ・アメリカへの留学に旅立ちましたので、ここで先生との交流は一旦途絶えてしまいました。
そして、その留学中の1995年8月1日に、日本高専学会が創立されたのでした(つづく)。
徳山高専で開催された教育研究集会の懇親会場にて(2005年3月21日)
(右が久松俊一先生、中央が私、左は五十嵐譲介(木更津高専)先生)
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