追悼・久松俊一先生
 
 前記事においては、久松俊一(木更津高専名誉教授)先生のことをH先生と呼んで、その追悼文を記したことを紹介しました。

 この追悼文は、日本高専学会誌の2023年4月号(Vol.28 No.2)に掲載されていますので、改めて、その追悼文を参考にしながら、ありし日の久松先生を偲ぶことにしましょう。

 なぜ、それを振り返るのか、この問題から分け入ることにしますが、それは、先生が、高専にとっては非常に重要なお仕事をされたことにあります。

 おそらく高専史を振り返っても、そこに刻まれる業績を実践的に積み重ねられてきた稀有の存在といってもよいでしょう。

 まず、初めに追悼文執筆の経緯と久松先生の略歴を簡単に示しました。以下、その本文です。
 

1.  はじめに

昨年末,本学会の山下会長から,久松先生の訃報とともに,その追悼文の執筆依頼がありました.

先生とは,この2,3年音信が途絶えていましたが,高専のことや技術者教育のことを考える度に,「どうしておられるか?」,「元気なのか?」と,いつも思いを巡らしていました.

それは,私にとっては,先生が,「切っても切れない仲」の人だったからであり,その逝去の報に接して,先生との思い出が走馬灯のように鮮やかに浮かんできました.

先生は,1967年に京都大学大学院経済学研究科修士課程を修了され,その後,塾の講師をなされた後に木更津高専に勤められました.

ご専門は,人文・社会,教育学,科学技術学などでした.


 友人には、種々のタイプがありますが、久松先生とは、かつては組合活動における友人であり、そして、その後は学会活動における友人でもありました。

 それが可能になって、太いパイプが形成されたのは、互いに理論的探究心において、同じ問題意識と立場、そして積極的な意欲を持っていたからではないかと思われます。

 また、かれは人文社会学者、私は工学者であるという異なる専門の組み合わせもよかったようでした。

 久松先生は、1995年5月に設立された日本高専学会の「呼びかけ人」の一人だったそうなので、以来、平会員(4年)、理事(6年)、副会長(6年)を務めてこられました。

   日本高専学会の山下哲会長の追悼文によれば、久松先生は、1984年に木更津高専に、当時の西田亀久夫校長に見染められて赴任したとされていますが、これが、かれの人生の大きな転機となりました。

 かれとの対話のなかで、この西田校長のことがよく語られていましたし、同時に、高専という、何の規範もない教育現場において、教養教育をどうあるべきかを考えることが、まるで水を得た魚のように適合していたのではないでしょうか。

 そして、それを生涯の仕事として磨き上げ、完成させていくという「生涯の仕事」を見出されたいったのだと思われます。

 こんな時ほど、人は強靭になれるものであり、そこに我々との対話が加わり、それが高専教育の全面的な発達へと結びつく舵を切らせたのではないでしょうか。

 話好き、人好き、酒好きで、いつも明るく笑顔の先生でした。

 先生とのエピソードについては、先の追悼文に示したもの以外にもたくさんありますので、これから、それらを紹介していくことにしましょう。

hisamatu

自宅の書斎での久松俊一先生
(日本高専学会誌『さわやかインタビュー』より引用)