糸巻の聖母
『糸巻の聖母』は、レオナルド・ダ・ヴィンチによって1499年に描かれた作品だと伝えられています。
この絵は、聖母マリアの前で、イエス・キリストが糸巻きで遊んでいる様子を描いたもので、糸巻きに興味を抱いたイエスの表情と、それをやさしく見守るマリアの姿がみごとに描かれています。
このイエスの表情と仕草、そしてマリアの顔については、レオナルド・ダ・ヴィンチは描いたとされていて、残りは、ダ・ヴィンチ工房の弟子たちによって描かれたものだとされています。
また、この絵については、完成された絵自体がいくつも模写され、その総数は40数点にも上るといわれています。
おそらく、その模写された絵画か、さらにそれを模写したものかが、シーボルトによって宗城公に届けられていたのではないでしょうか?
この絵画を巡って、宗城公、長英、崋山の議論が盛り上がって最高潮に達していました。
崋山が、宗城公に、こう尋ねました。
「ダ・ヴィンチの『糸巻きの聖母』においては、線なしに人物像が描かれているそうですが、それは本当でしょうか?
私は、線なしに人物を描くことはできないと思っていますので、吃驚仰天しました」
「そうでしょうね。私も驚きました。
わが国の絵画は、中国の画風を長きにわたって学んできました。
その南画が、今でも主流になっています。そこから、何とか抜け出そうとしてきたのが崋山さんらでしたが、そこから、どう抜け出していくのかが、かなり重要な問題でした。
崋山さん、そうではありませんか?」
「ご指摘の通りです。南画から抜け出そうとしてきたものの、その抜け口が見つからないまま、悪戦苦闘してきました。
そのために、人物を描くときには、可能なかぎり線を細くしながら、その表情を写実的に描こうとしてきましたが、まさか、線を無くしてしまおう、とは思いませんでした。
そこに、わが国絵画の限界があったことには気づきませんでした」
「そうでしょうね。長英さんは、この問題について何かシーボルト先生から教わっていませんか?」
「はい、シーボルト先生と助手のハインリヒ・ビュルゲルさんが、熱心に西洋絵画について論じていたところに、偶然で出くわしたことがありました。
しかし、私は、その西洋絵画とやらを一度も見たことがなく、その時に、かれらの会話に深く入っていくことができませんでした。
宇和島に来てから、宗城公から差し出された文献のなかに、西洋文化論を説いたものがありました。
それを翻訳しながら、西洋文化の華として、イタリアから始まったルネサンスというものがあり、その豊かさに驚きました。
今思い出しましたが、その中心物が、話題になっているレオナルド・ダ・ヴィンチだったことを・・・」
「そうでしたか。私の資料のなかに、そのようなものが入っていましたか?
それについては、報告を受けていませんでしたね」
「そうです。私が依頼されたのは軍事後術の翻訳と報告でしたので、西洋文化論については省かせていただきました」
「それは残念でしたね」
ここで、今まで黙っていた二宮敬作が割って入ってきました。
「宗城公、今からでも遅くはないですよ、もう一度、長英さんを宇和島藩に迎えたらどうでしょうか?もしそれが可能であれば、無類の酒飲みの友ができることになりますので、願ってもないことですが・・・」
「それは、真にすばらしいアイデアですね。しかし、二度も長英先生を匿ったことが幕府に知られると、今度こそ、わが藩は取り潰しになるのではないでしょうか」
こういった宗城公の表情は強張っていて、どこか寂しそうでした。
それを見た一同も、言葉が出ずに、それまで夢中に話をしてにもかかわらず、しばらくの間、沈黙の時間が流れていました。
そして、宗城公は、何も言わないままに、その場を退席されたのでした。
「崋山さん、結局、レオナルド・ダ・ヴィンチのことは聞き出せなかったね。残念だけど・・・・」
「長英さん、仕方がないですよ。あれ以上のことは無理だったのですよ」
「そうですか?それにしても、その前までは、宗城公は嬉しそうに話されていましたね」
「誰とも、レオナルド・ダ・ヴィンチのことなどのことを話ができなかったからでしょう。本当に嬉しそうでした」
「そうでしたね」
「あそこまで聞くことができて大満足ですよ」
「そうですか、よかったですね」
高野長英と渡辺崋山は、繁華街の「かどや」で反省会を兼ねての食事をしていました。
酒好きの長英は、もちろん地酒の「虎の尾」を楽しんでいました。
酒の肴は、こもまた宇和島名物の「じゃこ天」であり、崋山は、かどやの名物「宇和島鯛めし」をいただいていました。
そこに遅れて二宮敬作が現れました。
「二宮、遅かったじゃないか、お前がいないと進まん。いったいどこに行っていたのか?」
こういわれた二宮は、そっと崋山に耳打ちしました。
「崋山さん、ちょっと私についてきてくれますか?」
二宮は、崋山を誰もいない露地まで連れてきて、そこに隠していたものを取り出しました。
「崋山さん、いいですか、何も言わずに、これを観てください。しばらくして、これを取りにきますので、その間だけ、存分に観てください」
こういって、二宮は、かどやに戻っていきました。
二宮が崋山に手渡したものは、小さな『糸車の聖母』の模写絵画でした(つづく)。
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