この間を、振り返ってみよう!

 一昨日、昨年末以来執筆してきた論文の第三報目の投稿を終えることができました。

 ここで、その第四報の執筆準備をしながら、その第三報までを少し振り返ってみることにしました。

 まず、最初の重要な課題は、高専創立以来の教育目標となってきた「実践的技術教育」の関する、より本質的な考察を行うことでした。

 なぜ、そう思ったのでしょうか?
 
 その理由は、この「実践的技術教育」が、この62年間において、さほど理論的に探究されてこなかったことにあり、依然として、初歩的段階に留まっていることにあるのではないか、そう思うようになったのでした。

 当時の産業界の高専に対する要請は、2年早く技術労働力が欲しいというものであり、その多くが現場の生産労働者として就職していきました。

 折から、日本経済は、高度成長期の真っただ中にあり、それを支えたのが重化学工業を中心にした製造業であり、アメリカから下された「アジアの工場」化を実現し、朝鮮戦争を契機とした好景気に乗じて成長していこうとしていました。

 そこで、創立当初の高専においては、次の教育目標が定められました。

 ①実践的技術者の養成

 ②中堅技術者の養成

 ➂「大学に準ずる」学力の養成

 おそらく、この3つもの、それぞれ異なる目標を掲げたことに「十分さ」がなかったのではないでしょうか。

 この実践的技術教育の在り方を探るために、高専の英知を集めて、粘り強く研究すべきだったのです。

 まず、目標が3つもあると、どこに力点を置けばよいのかが、解りにくくなります。

 ①については、今一つ何をすればよいのかが解りにくい、②と③は、①と比較して解りやすい、と考えられたのではないでしょうか。

 そこで、これらに関する理論付けがなされるようになりました。

 それをリードしたのが、川上正光(東工大学長、初代長岡技術科学大学学長)氏でした。

 その川上説の主要な内容は、以下の通りでした。

 「大学は、理論を学ぶところであり、高専は実践を学ぶところである」

 高専の現場においては、この実践とは、主として実験実習を意味していると解釈し、その時間を増やすことがなされました。

 その後、かれは、再度、高専教育のあり方に言及し、「ノウハウ型教育」という、より発展させた教育目標を示されますが、それは高専の現場において深く受容されることはありませんでした。

 因みに、「ノウハウ」とは、ものごと(この場合は技術)の知識やコツのことであり、このコツとは何かに関する探究力が不足していたように思われます。

 このコツをめぐって、高専創立時の真摯な校長は、その探究を試みましたが、そのブレイクスルーは実現しませんでした。

 そのことを彼らは、素直に校長退職後の弁として語られています(『高専教育』参照)。

 一方、②に関しては、高専教員のほとんどにおいて、高専生が就職して仕事をするのは「中堅どころ」であることを、それなりに受容していたのではないでしょうか。

 高専生は、大学生よりは下位にあり、かれらの給料も、より下のランクに据えられていた企業も少なくありませんでした。

 しかし、当時の地方の国立大学における工学部生の教育目標が「中堅技術者の養成」であることを、そのほとんどが、よく理解していませんでした。

 その教育を受けた私自身も知りませんでした。

 その後、高専教員になって、その同一に気づき、この目標に小さくない問題があることを認識しました。

 なぜなら、そこに、小さくない「劣等意識」が蔓延っていたからでした。

 当時の高専生の多くが、「私は、本当は大学に行きたかったが、やむなく高専に来た」という主旨のことを、大学生の私によくいっていました。

 そのころは、剣道部の練習において、高専生と一緒にやることがあり、親しくなっていました。

 その後、高専教員になってからも、その劣等意識が気になっていて、その理由を調べていたのですが、そのルーツのひとつが、高専教員の劣等意識から発生していることを見出しました。

 その意識とは、「高専では研究ができない」、「大学には敵わない」というもので、現に、「年休を取って学会発表に来た」という先生、ある助手の先生が「研究はしなくてよい、教育しろ!」といいわれ続けていたことなどに出会いました。

 この研究蔑視、不要論の裏返しとして「劣等意識」が生まれてきているのだと推察しました。

 これが、多感な高専生にも伝搬して、そういわせたのだと思いました。

 ➂については、当時の高専教員にとっては、非常に解りやすく、受容しやすかった目標だったのではないでしょうか。

 朝8時半から夕方17時まで、少しの隙間もなく、びっしりと授業が組まれていましたので、そこで徹底的に教えようという意識が働いていたように思われます。

 私自身も、その教える側にいたのですが、いつもふしぎに思っていたことがありました。

 私の教えた科目に「水理学」があり、それを3年生から教えました。

 週1回2時間、通年の授業であり、これを3年生、4年生に教えました。

 その開始は、高校3年生、終わりは大学1年生と同じなので、かれらの学力も考慮して、非常にゆっくりと、それこそ噛み砕くように教えていきました。

 途中で演習の授業も行い、時間を取って、よく考えさせるということも行いました。

 私が受けた大学での同じ授業と比較すると約2~3倍遅いペースで教えていきましたが、それが終了する際には、大学で習ったこと以上に、その授業内容が進んでいたのでした。

 「おかしいな?同じ単位数なのに!」

 そう思っていましたが、しばらくして、その理由が判明しました。

 単位数は同じであっても、その換算方式が違っていたのです。

 大学の方式で換算すれば、私が授業を行った単位数は、じつは4単位ではなく、8単位だったのです。

 時間をかけて丁寧に授業を行っても、大学以上に教え込むができたのは、この実際の授業時間巣数の違いだったのです。

 このことは、その後JABEE(日本技術者教育認定機構)において、その審査委員になって、ある地方の国立大学の審査を行った時に、その詳細な違いが解りました。

 すなわち、高専教員が、「大学に準ずる」と、あえて強く意識しなくても、大学以上の授業を行うというシステムになっていたのです。

 その後、この違いは、そのJABEE認定における総授業時間数においてより明確になりました。

 大学では、その時間数において当初は1800時間とされていたのですが、それが多すぎるということで1600時間に下げられました。

 この時、高専との比較を行いました。

 その時間数は、2550時間前後であり、約1000時間も違っていたのです。

 「大学では、高専と比較して教えなさ過ぎているのではないか!」

 こう審査基準の委員会において指摘しましたが、それに賛同する大学側の委員はいませんでえした。

曲がった小路

 森政弘先生の大ベストセラーである『「非まじめ」のすすめ』のなかに、子ヤギが石に躓(つまづ)いたために、小路を曲がって通ったという話がありました。

 ふしぎなことに、その曲がった小路を通るときに、どの動物も、その曲がった小路を曲がったままで通っていったのです。

 その道をヒトが同様に通るようになり、その道を舗装した時にも、曲がったままで、その道を作ったという話です。

 この約1000時間もの授業時間の違いは、このヤギが通った「曲がった小路」によく似ています。

 こうして、実践的技術教育は、実験実習の時間を増やすこと、中堅技術者は、地方の国立大学の教育目標でもあったにもかかわらず、曖昧な劣等意識を助長し、大学に準ずるは、教えすぎるほどの詰め込み、という実践を行うことになったのです。

 この高専における「曲がった小路」は、その後、高専自身によって変革されていくことになります。

 次回は、それが、どうなされていったのかに分け入ることにしましょう(つづく)。

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ミモザ(前庭、撮影日:2023年5月10日)