日光へ

 深川から日光までの距離は151㎞,東北道を自動車で行けば2時間8分の工程です.

 松尾芭蕉らの一行が歩いた距離は,平均で一日30㎞でしたので,ほぼ5日の工程で日光に到着したはずです.

 日光といえば,徳川家康が祀られた日光東照宮があります.

 芭蕉らが,この日光東照宮を訪れたのは4月の初めであり,緑の若葉が出始めたころです.

 ここを芭蕉らが訪れたはずですが,そのことは,旅日記などには詳しく記されていません.

 それは,なぜか?

 森村芭蕉は,これを奥の細道の最初の謎だといわれています.

 家康が亡くなったのは,1616年4月7日です.

 その死因は,魚の唐揚げがあまりにも美味しくて,それをたくさん食べたことがよくなかったとされていますが,最近の調査によれば,その食べた魚の量があまりにも多かったようです.

 そのことから,健康を気にして,自分で薬草を煎じていた家康が,そんなに大量の魚の唐揚げを食べるはずがない,それはきっと影武者ではないかという指摘が,テレビによく出てくる歴史学者によってなされていました.

 かれによれば,あまりにもたくさんの鯛やほかの魚の天ぷらを食べさせて,もはやその時点では不要になった影武者を殺すために食べさせたという説を確信めいて述べていました.

 それはともかくとして,家康が死亡したのは,1616年の春,その時から73年後の春に,芭蕉らが日光東照宮を訪れたのでした.

 今の東照宮の社は,将軍家光によって造替されたものですが,ここには,かの有名な3猿(見ざる,聞かざる,言わざる)や眠り猫の作が展覧されています.

 これらは,左甚五郎という,当時としては高名な彫刻家の作ですが,この名の作者は一人ではなかったという説もあるようです.

 ここに著名な彫刻家の作品を掲げて,多くの参拝者を集め,それを家康の威信に結びつけようとした徳川幕府の狙いが透けて見えます.

 松尾芭蕉は,これらの作品や東照宮の華麗な建物には一切触れず,句も残していないという謎について,森村芭蕉は,次のように推察されています.

 「芭蕉は,政治や権威とは別次元の考えを持った人物であり,日光東照宮を訪れて,それらを見聞したはずですが,それで,かれの心が動かされることはなかったのだとおもいます」

 家康が逝って,すでに73年が経過し,元禄の時代が始まっていました.

 すでに稀代の悪法といわれていた「生類憐みの令」が発布され,将軍綱吉の浪費によって,家康が遺した金銀を使い果たし,幕府の財政は傾きかけていました.

 江戸の庶民は,今でいうインフレーションによって物価高騰に喘ぎ,相次ぐ貨幣の改鋳によってますます経済的困難に苦しんでいました.

 しかし、一方で江戸や大阪の商人たちが財をなして活躍したのもこのころで,あの有名な紀伊国屋文左衛門もその一人でした.

 芭蕉は,このように爛熟した世相から回避して,自分を厳しくて侘しい旅のなかで俳句の道を究めていこうとおもったのではないでしょうか.

 あらとうと 青葉若葉の 日の光

 「徳川家康や日光東照宮のことには何も触れずに,この句のみを詠んだことには,芭蕉の力強い意思が込められているのではないでしょうか」

 こう森村芭蕉は語っています.

 4月初めの青葉や若葉が,日光に当たって輝いている,なんと美しくて尊いことか,と旅の途中で季節を愛でたことが,この俳句から窺えます.

 家康も,左甚五郎も70数年前の人であり,芭蕉にとっては,自分が生きている今こそが重要であり,そこに「不易流行」の本質を見出そうとしたのではないかとおもわれます。

 この日光については,森村誠一さんの『芭蕉の杖跡』においても,わずかな記述しかなく,そのことが,政治と権力とは芭蕉と同じくかれも別次元にいたことを示しています.

夢一睡

 そして,次の句を詠まれています.

 尊しと見る 日の光 夢一睡

 今の時代から,当時は尊しと思われた徳川300年も,今の時代から振り返れば,夢の一瞬の出来事ではないだろうか,こう仰られているようにおもわれます.

 次回は,東照宮を後して自らの心身を清めた「裏見の滝」での時空間に分け入ることにしましょう(つづく)。
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