古池や

 松尾芭蕉は、伊賀に生まれ、30歳で上京、当初は日本橋に住んでいたようです。

 37歳になったときに、静寂を求めて江戸下町の深川に移住しました。

 当時の芭蕉が棲んでいた住居は残っていないようですが、ここで芭蕉は、あの有名な句を詠んでいます。

 古池や 蛙とびこむ 水の音

 奥の細道の起点は、この深川であったことから、森村芭蕉は、この句に因んで、隅田川沿いにある芭蕉記念館を訪ねています。

 この記念館は、石の蛙が、台風が立ち去った後で見つかったそうで、それに因んで建設されたようで、以来、ここにはたくさんの蛙の像が持ち寄られるようになっています。

 森村さんは、その古池を探索されたそうですが、静かな、そして小さな池があり、そこに落ちた蛙を見たのではないか、と想像されていました。

 しかし、その池は不明のままであったようで、『芭蕉の杖跡』においては、蛙は、池に落ちても音を出さないという人の説があることも紹介されています。

 この水の音に関しては、すでに何度か解説してきましたが、芭蕉の卓見は、それを「蛙の音」とはいわず、「水の音」といったことにありました。

 この水の音がしたのか、しないのかは、おそらく、蛙が水のなかに落ちる時の高さの問題が関係しているのではないかとおもわれます。

 低いところから水に飛び込めば、当然のことながら、その身体が空気を巻き込むことができなくなり、音が発生しない可能性もあります。

 逆に、高いところから飛び込めば、空気を水のなかに巻き込み、それによって水と空気による渦巻きが発生し、それが音源になって聞こえてくる現象が生まれるといってよいでしょう。

 蛙が、勢いよく飛び込む際に、その身体が、水面に衝突すると、蛙の体表面と水の摩擦によって、水が体表面に沿って引き込まれ、その際に周囲の空気も巻き込んで、その体表面近くに渦巻きが形成され、その水と空気からなる渦巻きが音を発するようになります。

 これは、両手をそっと合わせると少しも音は発生しませんが、手拍子を打つと音が出ます。

 それは、両手の間に挟まれた空気の渦巻きが形成されることで、音を発するようになることと流体力学的には同じ現象なのです。

 芭蕉の慧眼は、その音を水の音といったことにあり、かれの直観が、その流体力学の科学の目に則していたことになります。

 その住み慣れた深川の地を離れ、いつ終わるとも知れない奥の細道に旅立ったのは、1689年の3月27日のことでした。

 この時、芭蕉は、すでに45歳であり、これが、人生最後の旅になるのかもしれない、とおもわれていたのではないでしょうか。

 深川を船で出発し、千住大橋付近で詠んだ次の句において、未知の東北道に向かう芭蕉の心境が詠われています。

 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

 奥の細道における歩行距離は1768㎞、日数は156日であり、一日の平均歩行距離は約30㎞でした。

 人の歩行距離は、1時間あたり4㎞ですので、30㎞を歩くのに要する時間は、7.5時間になります。

 朝起きて旅立ち、三度の飯もそこそこに、夕方暗くなるまで歩み続け、宿を見つけるという過酷な旅になることを予想して、鳥が啼き、魚の目にも泪と詠ったのでしょう。

 しかし、旅のなかでしか、自分の句魂を究めることができないと心に決められていたのでしょう。

 45歳といえば、人生50年の時代においては、残り5年しかなく、それを今に例えれば、75歳にして、その締めくくりの長い旅に出ていくことに相当します。

 この時の芭蕉の哲学は、「不易流行」めざすことにあり、今の「はやり」のなかに「変わらぬ普遍的な本質」を見出していくことでした。

私の「奥の細道」

 この哲学訓は、私に、次のように「重要な何か」を教えようとしているのではないでしょうか。

 このブログにおける記事「マイクロバブル博士の『マイクロバブル旅日記』」の旅は、2008年5月7日に始まりました。

 以来、約15年が経過し、「私の奥の細道とは何か」を考える必要があるのではないか。

 この森村誠一さんの「奥の細道をたどる」を契機に、よりバージョンアップした「マイクロバブルの旅」に踏み出してみようか、とおもうようになりました。

 松尾芭蕉、森村芭蕉を指導の杖に寄り添い、マイクロバブル芭蕉の不易流行を見出すことができるのか。

 この旅と共に、そのことに分け入ってみましょう(つづく)。

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石碑(清澄公園)