「森村誠一 謎の奥の細道をたどる」

 森村誠一さんは、この「奥の細道」に旅立つ際に、芭蕉への想いを次のように語られています。

 その第一は、芭蕉の「句塊」に関することでした。

 芭蕉が奥の細道の旅に出発したのは、元禄2年(1689年)3月27日でした。

 時の徳川幕府の将軍は5代目の綱吉であり、この出発の2年前に「生類憐みの令」という悪法が発布されていて、さまざまな混乱が起きていました。

 このような幼稚な悪法がまかり通った世の中を、芭蕉は憂えていたとおもわれますが、おそらく、そのような混乱の江戸において過ごすよりは、はるかに意味のある旅に自らを託していきたいとおもっておられたのでしょう。

 かれにとって、旅こそが人生そのものであり、そのなかに身を投じることによって、本当の俳句の境地に近づくことができるのではないか、とおもわれていたのではないでしょうか。

 すなわち、旅こそが俳句の魂を鍛え、それを洗練させることだったのではないか、このように森村さんは推察されていました。

 今から10数年前に、たしか14代とかいっていましたが、芭蕉の後継者といわれていたK高専のI先生に会ったことがありました。

 この方は、大変ユニークで、自分で刀を製作したり、K高専のキャンパス内に茶房を製作し、茶道を学生たちに教える先生でした。

 そのかれに、こう尋ねたことがありました。

 「芭蕉とは、どのような人物だったのですか?知人もほとんどいない奥の細道をどのようにして旅したのですか?」

 「芭蕉は、その行く先々で、地元の方々に歓迎されました」

 「なぜ、歓迎されたのですか?そこに弟子がおられたわけではないでしょう!」

 「そうです。弟子の方は、ほとんど居ませんでした。

 じつは、芭蕉は、聞き上手、話し上手の達人だったのです」

 「といいますと?」

 「はい、まず、地元の人々がやってくると、その方の話をゆっくり聞いて、何に関心を持っておられるのかを探ります。

 そして、そのことを、あれこれ訊いて、その方がやってきた理由を知ります。

 それが解ると、その人の立場に則して俳句の話をしていくのです。

 そうすると、その地元の方々は、見も知らない芭蕉のことを身近に感じ、心を開いていくのです。

 こうして、その一期一会によって、それらの人たちが、すっかり芭蕉のファンになっていくのです」

 「なるほど、芭蕉は聞き上手、話し上手の天才だったのですね」

 その後、このI先生とは非常に親しくなり、一緒に学会の仕事をしたこともありました。

 あるとき、その学会の会議が終わって一緒に電車に乗っていたときに、先生から「ブログ」のことを紹介していただきました。

 それは、当時、神戸女学院のU先生が、そのブログを駆使して大活躍をなさっている話でした。

 そんなことを教えていただきながら、

 「先生もブログをなさってみたらどうでしょうか」

と勧められました。

 「ただし、ブログは、毎日記事を書かないといけませんよ!そうしないとみなさんから読んでいただけませんよ」

ともいわれました。

 「そうか、帰ってから、私もできるかどうか検討してみます」

 電車のなかで、こういってI先生と別れたのでした。

 徳山に帰って、すぐに、そのブログやらを見てみました。

 これならば、私もできそうだと、これを開始したのが、2008年5月7日のことであり、少々気負いながら「旅立ち」というタイトルで記事を認めました。

 あれから、15年、月日が経つのははやいものですね。

 おかげで、途中に68日間の大病を患った時期を除いて、今日までに5112回の記事を更新することができました。

 「I先生、あなたの助言にしたがって、毎日ブログを更新していますよ!

 真に、懐かしいですね。

 あなたとは、親しく、そして、同校のH先生と同様に、熱い議論を交わす仲でしたね。

 あの時の『勧め』がなかったら、今や生きがいの一つとなっているブログを、このように長く続けることはできませんでした」

 森村さんが、その旅立ちに際して強調したもう一つの重要な芭蕉訓は、すでに述べてきたように、

 「不易流行」

という新たな概念でした。

 「不易」とは、変わらないこと、そして「流行」とは「トレンディ」のことだと解説されていました。

 最先端の流行のなかに不変のものがある、この一見二律背反するような概念を想像し、その探究をめざしたのでした。

 芭蕉は、奥の細道への旅立ちによって、今という流行のなかで、変わらない普遍的な価値を見出そうとしたのでしょうか。

 そも未知の世界における自分や民衆のみなさん、そして自然との出会いによって、新たな自分を創造し、出会う方々や自然との融合を図ろうとしたようにおもわれます。

 森村さんには、当時の芭蕉の装束が贈呈されていたようです。

 その森村芭蕉の物語が始まりました。

 じつは、私も15年前に、このブログを通じて光マイクロバブルの旅に出発しました。

 そのなかで、光マイクロバブルの「不易流行」を探究してきました。

 そのおかげで、いろいろと苦しみながらも、おもしろく、そしてゆかいに、この旅を続けることができました。

 次回は、その想いを抱きながら、「森村奥の細道」の最初の行程に分け入ることにしましょう(つづく)。

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ローズマリー(前庭)