渡辺崋山とレオナルド・ダ・ヴィンチ(2)
「長英さん、その後、宇和島の二宮敬作さんから、何か耳よりの情報は得られたでしょうか?」
美術家として気にかかりますね。
たしかに、ありましたよ。
あの西洋好きの伊達宗城公のことですから、何か貴重なの情報を持っておられるとおもいましたが、その推測の通りでした。
二宮は、西洋絵画に関する『重要な何か』を持っているらしいといっていましたよ」
「それは、何ですかね?気になりますね!」
「それは、何ですかね?気になりますね!」
「そうでしょう。
しかし、二宮は、かなり頑張って宗城公に尋ねたそうですが、それが何かを詳しくは教えてもらえなかったなかったそうです。
それでも何か重要なことを宗城公は掴(つか)んでいるようだったといっていました」
「そうですか、それは残念でしたね。
長英さん、あなたは、宗城公の慎重さ、口の堅さを、どうおもわれますか?」
「普段の宗城公であれば、二宮に対して、そのように慎重になって口を閉ざすことはありません。
おそらく、何か、とんでもない重大なことがあってのことではないかとおもいます」
「そうであれば、なにか、良い知恵はありませんか?」
「あれこれと、私も考えてみましたが、良いアイデアが浮かんできませんでした。
「あれこれと、私も考えてみましたが、良いアイデアが浮かんできませんでした。
こうなったら、二宮に会って、もう一度頼み込むしかないのかもしれません。
その上で宗城公にどうアタックしていくかを検討しましょう」
このような会話の末に、二人とも、これからどうすればよいかを。しばらくの間思案していました。
そして、崋山は、意を決したように、こう切り出しました。
「長英さん、もしよろしければ、二宮さんに直接会いに行っていただけませんか?
私も、お供したいとおもいますが、いかがでしょうか?」
「崋山さん、最近は監視の目が弛んできたとはいえ、あなたは蟄居の身であり、遠く四国まで出かけていくことはできるのですか?」
「昨年の安政の大獄で井伊直弼が退いて、その後を担った老中首座の阿部正弘によって、かなり自由に往来ができるようになったと聞いています。
私も、蟄居のなかで、自分の身の振り方を深く考えてきました。
そして、私は、美術の世界で生きていくしかない、とおもうようになりました。
そのために人生を全うしたい、これが偽らざる今の心境なのです。
長英さん、私は、あなたのことを常々羨ましくおもってきました。
あなたは、自分の命を賭して医術や学者としての仕事をなされ、数々の苦難の中で幕府からの逃避行をなされてきました。
私は、そのようにしたいという気持ちがありながら、それができなかったのです。
しかし、今度は、私が信ずる美術のために、その命を賭してみたいのです」
宇和島へ
長英は、崋山の訴えを黙って聞きながら、密かに心を震わせていました。
「そうでしたか、よくぞ、決心されましたね。
すばらしく立派ですよ、崋山さん。
お互いに、何度も死ぬような目に会った私たちですから、その気持をよく理解できます。
じつは、私も、幕府の役人に追い詰められ、自刃したのですが、そこにやってきた役人の一人が、こういって私を助けてくれたのでした。
『長英先生、私の父は、重い病気になってもう先がないという状態で、あなたに治療していただきました。
あなたのいう通りに薬を手に入れて、父に飲んでいただきました。
そしたら、父は徐々に回復していき、今ではすっかり元気になりました。
その父が常々仰っていたことが、あなたに恩返しをしなければならない、ということでした。
あなたは、父の恩人なのです。
いいですか、ここで、あなたは自刃して亡くなったことにしますので、これからは、別人として自由に生きられてください。
これが、今は亡き父への孝行なのです。
どうか、こう父に報告させてください』
私は、こうして助けられたのです」
「そうだったのですか!私の自刃を、ある方が思い留まらせてくださったこととよく似ていますね」
「崋山さん、こうなったら一緒に、宇和島の二宮のところに行きましょう」
「それが、一番の近道なのかもしれませんね。長英さんと一緒に旅ができるなんて、なんと幸せなことかとおもいます。
もしかして、宗城公は、私が最も知りたいと思っているレオナルド・ダ・ヴィンチのことに関する何か貴重な情報を手に入れておられるのかもしれませんね」
「あの『モナ・リザ』のことですね。私も二宮に会いたいとおもっていたところでしたし、宇和島には『おイネ』さんもおられます。
彼女にも、そのレオナルド・ダ・ヴィンチのことを尋ねてみましょう。
崋山さん、善は急げですよ!」
こうして二人の宇和島行きが決まりました。
こうして二人の宇和島行きが決まりました。
かれらが、いそいそと江戸から下ったのは1862年春のことでした。
その翌年には、薩英戦争が始まり、ますます幕藩体制が揺らぎ始めたのでした(つづく)。
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