老いの哲学(1)

 寒さが少し和らいできましたが、代わりに、この季節特有の花粉が飛び始めてきて、出歩くことができなくなりました。

 体調を整えるための目、鼻、口のケアを行い、悪化を防ぎながら、この季節を何とか乗り切ろう、これが当面の目標です。

 唯一の救いは、緑砦館のなかまでは花粉が侵入してきませんので、心置きなく野菜たちと触れ合うことができます。

 本日は、朝早くからテレビ局の取材を受けましたので、それが終わって昼からの緑砦館における観察となりました。

 先日来、緑砦館1においては、屋根の上からすっぽりとビニールが敷かれましたので、余計に断熱性が向上してきて、そのハウスのなかの昼下がりにおける気温は32.5℃にもなっていました。

 こうなるとアブラムシたちが、蠢いてきて盛んに野菜の新馬を蝕むようになりますので、入館とともに行う作業は、このアブラムシ退治です。

 まずは、それらを見つけては指で潰していきましたが、それでも埒が明かず、水道水で洗い流し、水路に落とし込む作業へと切り替えました。

 水に弱い、アブラムシの習性を狙った撃退方法です。

 しかし、この退治だけでは、せっかく入館したのですから、その洗い流しを終えた後に、若葉状態のサニーレタスの30枚葉を収穫しました。

 その際、葉が重なって生育に支障を来しているところを見つけては採取するという、いつもの方法で摘んでいきました。

 昨日は、このサニーレタスの若葉に、マヨネーズにオリーブ油と塩を少々混ぜたドレッシングをかけて美味しくいただきました。 

 柔らかいサニーレタスが、よりスムースになって素敵な食感になりました。

 こうして、定年退職後の10年において、この野菜づくりとその賞味がすっかり定着してきました。

 推理小説作家の森村さんは、人生100年時代を迎えて、定年後の60歳代からは、人生の後編が始まることから、そこでは「新章」を書くことができるのではないかと指摘されています(『老いの正体』)。

 定年になる少し前から、光マイクロバブルで野菜を育てることを研究し始め、その延長で国東に来てから、それを積み重ねることで今日を迎えることができました。

 おかげで、その後編における新たな章づくりとして、そして、その野菜によるロハスを楽しめるようになったことは、真に幸いで素敵なことでした。

 さて、次の新たな第二章は何になるのでしょうか?

 それを思案してみることもよいことですね。

 少々前置きが長くなりましたが、森村さんは、「老いることは人生の達成に近づくことである」と指摘されています。

 人生の後編(定年後の数十年)においては、その達成とは、「意味あるものとして生き切る」ことが問われるのだといわれています。

 一昔前までは、定年で60歳を過ぎると、「もういい年だから」、「いつお迎えが来てもおかしくないから」といわれていたことが、今では、それを40年いい続けなければならなくなりました。

 無事定年を迎えたことは、人生の第二の始発駅に立ったことを意味しており、自分で、しかも自由に、その目的地を選んで列車に乗り込むことができるのです。

 さらに、森村さんは、こう仰られています。

 「人生のクライマックスは、後編にある」

 「後編でこそ大輪の花を咲かせられる」

 ①健康な心身を保つこと

 ②なんらかのかたちで社会に関わり続けること

 これらの重要な啓発を踏まえて、私の人生における「後編」を考察すると、今まさに、その真っただ中にあり、これからの5年において大輪の花を咲かせるという課題が問われていることになります。

 その花とは、光マイクロバブルであり、その大輪を咲かすとは、光マイクロバブルの研究成果を人々の幸福に活かすことであり、それこそが人生における「金的を射る」ことになるのではないでしょうか。 

 その五年をどう生き切るか、そのことが問われ始めているのではないでしょうか。

 今年は、その幸先良いスタートにしたいものですね

 こう思案しながら、緑砦館1において、アブラムシ退治とともに、サニーレタスを収穫してきたところでした。

 さぁー、今日も自家製新鮮野菜を頬張ることにしましょう(つづく)。
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サニーレタス(緑砦館1Aレーン)