崋山と長英(7)

 すでに、断ってきたことですが、この稿(崋山と長英(1)~(7))は、次の仮説を下敷きにして認められています。

 ①渡辺崋山は、蟄居中であったときに、絵を売って生活の糧にしていることが非難されたことを苦にして、1840年に自決しましたが、ここでは、それを思いとどまり、それから25年間(前述の20年を25年に変更しました)、すなわち1865年まで生き続けたと仮説されています。

 ⑵高野長英は、江戸の青山百人町に隠れ住んでいましたが、1850年10月30日に捕方にとらえられ死去しました。

 しかし、本稿においては、そこから逃れて以後20年間、すなわち1870年まで生き抜いたと仮説されています。

 ⑶その結果、二人は、それぞれ、次の幕末における歴史的事件が発生した時代を生きていたことになります。
 
 1)ペリーの黒船来航(1853年)

 2)松下村塾開講(1857年)

 3)安政の大獄(1858年)

 4)桜田門外の変(1859年)

 5)薩英戦争(1863年)

 6)第一次長州征伐(1864年)

 7)薩長同盟締結(1866年)

 8)大政奉還(1867年)

 9)戊辰戦争開始(1868年)

 10)明治維新、年号を明治にする(1868年)

 渡辺崋山は、上記の1)~6)まで、高野長英は、1)~10)の歴史的事実の時代を生き、見聞したことになります。

 この激動の時期において、かれらが生きていたならば、それぞれの事件について、どう考え、何をしようとしたのかを仮説として想像・推察していくことにしましょう。 

渡辺崋山とレオナルド・ダ・ヴィンチ(1)

 「崋山さん、あなたの絵画をいくつか拝見して、あまりにも上手く描けていることに吃驚仰天しました。

 あなたの観察力、表現力はすばらしい。あなたは偉大な画家ですよね、見直しました。

 私には、このような絵画芸術の才能はありませんが、それを観賞し、評価することはできます。

 どうして、あなたは、このようにすばらしい絵を描くことができるようになったのですか?」

 「そういわれても、あなたの質問には上手く答えることができませんね。だだ、幼いころから絵を描くことが好きでしたね」

 「あなたは田原藩の武士の長男として生まれていますので、お父さんのように侍として藩に仕えるように躾けられたのではないですか。

 なのに、なぜ、絵を描くようになったのですか?」

 
「たしかに父上は、田原藩の武士でしたが、禄高は低く、貧乏でした。

 おまけに、私の下には7人の弟、妹がいて、母上は、毎日の食事の用意にも大変苦労されていました。

 今でも思い出しますが、母上には寝る布団がなくて畳の上に、そのまま転んで寝られていました。

 物心が付いたころには、私も母上を何とか助けようと、家計に役立つような絵を描きたいとおもっていました」
 
 「幼心に、なんと立派なことか、さぞかし父母上が喜ばれたことでしょうね。

 しかし、売れるまでになる絵を描くことは簡単なことではないはずです。

 どのようにして絵の勉強をなされたのですか?」

 「はい、幼い私が、本格的に絵画の道を歩もうとおもった出来事が12歳の時に起こりました。

 私は、父の薬を買いに行く途中で急ぐあまり、誤って、ある大名の行列の人にぶっつかってしまったことがありました。

 私は、『無礼者』といわれて、ひどく殴られました。

 その様子を籠のなかの主がじっと眺めていました。

 その主は、丁度私と同じ年齢のようでした。

 同じ年齢でも、生まれが違うと、このように違う扱いを受けるのか、と悔しくてたまりませんでした。

 その時に、私は、わが身を立てるには絵画しかない、『これで立派になって、必ず見返してやろう』とおもいました」

 「そんなことがあったのですか!あなたの絵には、そのような思いが込められていたのですね。

 決して、身分の差を埋めることはできない。あなたのできることは立派に絵が描けるようになることだと決意した。

 その気持ち、私にもよく解ります。」 

 「そうですか、あなたも同じような思いをなさったことがあったのですか」

 
「はい、私は、すぐ上の兄と一緒に医学を学ぼうと、親に黙って江戸に出てきました。

 兄は漢方を、私はオランダ医学を学びました。

 しかし、親からの仕送りもなく、貧乏でしたので、按摩をしてなんとか生計を立てていました。

 二人とも貧しく、食うや食わずの生活でしたが、兄と一緒の生活は清々しく楽しいものでした。

 そのうち、その兄が病気になり、私が兄を看病をするようになりました。

 この時は辛かったですね。

 なにくそ、とおもって、兄の分まで二人分、按摩で稼ぎました。

 しかし、その看病もむなしく、兄は逝ってしまいました。

 『なぜ、こんなことになってしまったのか!』と、この時ほど悔しくおもったことはありませんでした」

 「あなたも苦労されたのですね。その悔しい想いが、シーボルト先生の下で学び、成長していく糧になったのですね

シーボルトの思い出

 「その通りです。藁をもつかむ気持ちで長崎に赴きました。

 私が幸運だったのは、シーボルト先生がすばらしい師であったことでした。

 かれは、私が懸命に勉強したことをきちんと評価してくださり、『ドクトル』の称号を授けてくださいました。
 
 学問で身を立てようとした私を真摯に評価し、熱心に指導してくださいました」

 「よい師に巡り合えたことは、よかったですね。少しうらやましくもおもいますが、あなたの原点が、シーボルト先生にあったことは、よく理解できます。

 ところで、あなたは、シーボルト先生から西洋美術について何か教えていただいたことはありますか?

 「はい、たくさんありましたよ。

 シーボルト先生は、オランダ政府に雇われて日本に派遣されてきましたが、生まれはヴュルツブルグという南ドイツの美しい都市で、医者の息子として生まれました。

 ドイツでは、幼い時に2つの芸術的素養を身に付けさせる習慣があります。

 おそらく、シーボルト先生が美術や音楽が好きだったのは、そのせいだとおもいます

 「なるほど、西洋の美術については、どのように仰られていましたか?

 「先生は、イタリアで始まった『ルネサンス』のことをよく語っておられました。

 この言葉は、復興、再生を意味するフランス語です。

 今から4、5百年前にイタリアのフィレンチェやミラノなどの商業都市を中心にして起こった文化、芸術の復興運動のことです。

 かれは、ルネサンス後期にミラノに現れたレオナルド・ダ・ヴィンチのことをうれしそうに語ってくれました」

 「そう、その方ですよ。私がぜひとも知りたいとおもっていたのが、ダ・ヴィンチさんなのです。

 シーボルト先生は、かれのことを、どう言及されましたか?

 「たしか、正規の奥様の子ではなく、恵まれない貧乏な子でしたが、父親に絵の才能を認められ、ミラノの有名な工房に弟子入りさせられたそうです。

 そこでかれの才能が花開き、重要な仕事を任せてもらうようになりました。

 最初の大きな仕事として、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁に描かれた『最後の晩餐』が評判になり、ヨーロッパの各地から、この絵をわざわざ見に来る人々が大勢いたそうですよ。

 シーボルト先生も、見に行かれ、そのすばらしさに胸を打たれたのだそうでした」

 「イエス・キリストが磔(はりつけ)になるなる前日に開いた晩餐会の絵ですね。

 たしか、遠近法という画法で立体表現を行い、キリストと弟子たちの表情をリアルに描いた傑作といわれているそうですが、それを直に観られたのですか!

 すばらしいですね

 「それから、もうひとつ、たしか『モネ・リーサ』、いや『モナ・リザ』とかいう夫人の絵画のことも誉めておられましたよ。

 残念ながら、こちらの方は、先生も観たことがないと仰られていました」

 「長英さん、何とか、その『モナ・リザ』の絵画の情報を探し、集めることはできないでしょうか?

 西洋について明るいあなたにしか頼めないことです。

 何か良い知恵はありませんか?

 「そうですね、宇和島の二宮啓作に頼んでみましょうか。

 西洋文化が好きな伊達宗城公であれば、なにか良い情報を持っておられるかもしれませんね」

 「どうか、よろしくお願いいたします」

 
こうして、崋山と長英は、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画について、長々とより深く、そしてよりおもしろく、話し込まれていきました。

 次回は、このダ・ヴィンチについて、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。

yuki-1
窓の外は雪