レオナルド・ダ・ビンチの生い立ち

 量子物理学者 デヴィット・ホーム:
 
 「真実と美の問題を追求していくと、実は最も深いところで科学と芸術を繋いでいる根っこに出くわすように思われる」


 「この格言をみごとに体現した人物は、レオナルド・ダ・ヴィンチただ一人だけである」

 物理学者でダ・ヴィンチ研究者のレーナード・シュレインは、こう指摘しています。

 芸術家は科学者ではなく、科学者も芸術家としては大成しない、これが一般的な通念であり、レオナルド・ダ・ヴィンチの後において定着してきた常識です。

 それでは、なぜ、レオナルド・ダ・ヴィンチにおいては、このような偉業が可能になったのでしょうか?

 そのことを考究するために、レオナルドの生い立ちまで遡(さかのぼ)ることにしましょう。 

 かれは、都会育ちの裕福な青年セル・ピエロ・ダ・ヴィンチとヴィンチ村の貧しい小作人の娘であるカテリーナとの間に生まれました。

 ピエロは、当時公証人をしていて、後に別の女性と結婚しました。

 レオナルドは、カテリーナによって育てられていましたが、その結婚を契機にピエロに引き取られます。

 そしてレオナルドの母親カテリーナは、ピエロの指図によって別の男と結婚するようになりました。

 やさしい母親から引き裂かれ、その父親と母親は、それぞれ別の女男と結婚するという複雑な血縁関係のなかで、レオナルドは鬱屈(うっくつ)しながら育っていったのです。

 幼き子供が、その母親と離れ離れになって暮らしたことは、レオナルドの精神形成に小さくない影響を与えたのではないでしょうか。

 しかもレオナルドは、今でいう正規に認知されていない子でしたので、教会が開いている学校に入ることができませんでした。

 それゆえに、当時の特権階級や富豪たちが公用語として習っていたラテン語を学び、用いることができませんでした。

 母親から切り離され、学校にも行けなかった、これが、レオナルドにおいて起こった「最初の挫折」でした。

 しかし、そのことで、レオナルドにとっては、ある意味で好都合な自己形成の「ふしぎな時空間」が提供されることになりました。

 その第1は、言葉を通じて学ぶという、当時の学習法ではなく、実践を通じて学ぶという、今でいう体験的学習法を身に付けることになったことでした。

 ラテン語を学ぶ教会エリートたちとは異なる勉強の道に進んだのです。

 第2は、その学習を行なうことには何の制約もなく、すなわち教会のしきたりや命令もなく、何事にもとらわれないという、自由さがあったことでした。

 何でも、見て、聞き、試す、という重要な実践を自由に重ねることができたのです。

 それゆえ、レオナルドは、自らを「無学の徒」と呼び、自らの体験的学習を優先させたのです。

 そして、言葉よりも経験の方が、はるかに勝っていることを確かめていったのです。

 この想いは、自分の母親に対しても同じで、40歳代になってミラノに住んでいた時に、彼女を引き取って一緒に住んだのでした。

 そして、母親が亡くなったときには、自分で葬式代を支払ったという記録もあるそうです。

 この不遇な生い立ちのなかで、何事にも制約されない自由のなかで、かれは「経験」という活路を自分で見出そうとしたのです。

 そのことを、レオナルドは、こういっています。

 「わたしは、遥かに偉大で、もっと価値あるものを引き合いに出そう。それは経験、学術の著者たちに君臨する女主人である」

 すなわち、

 「大きな嘘よりも小さな真実の方がマシ」

と信じて生きようとしていたのです。

 この良い意味での経験主義は、世界のHONDAを創業した本田宗一郎の経験主義とよく似ています。

 このことに関しては、後に詳しく考究する予定です。

 この幼少のころから青年に至るまでにおいて、実践的な体験的学習を積み重ねていったことが、後の創意あふれる「モノづく」に、いかに役立ったか、これが最初の重要なポイントといってよいでしょう。

 しかも幼いレオナルドにおいては、この経験のなかから、いくつもの、かれなりの重要な発見がありました。

 「本当の発見の旅とは、新しい風景を探すことではなく、新しいものの見方を持つことである」

 この小説家でレジスタンスであったアンドレ・マルローの言葉は、示唆に富んでいます。

 レオナルドは、その体験的学習によって、「新しいものの見方」を持てるようになっていったのでした(つづく)。
 
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アルノ川の風景(レオナルド・ダ・ヴィンチ、21歳、1473年8月3日)
『レオナルド・ダ・ヴィンチの左脳と右脳を科学する』より引用