老いの壁(3)
昨夜から雨模様、今朝も曇りですが、東南の空が明るくなってきていますので、これから天気は回復していくのかもしれません。
今の気温は8℃、まだまだ風は冷たいのですが、何となく春の気配を感じているこの頃です。
年老いてくると、手足の冷えが気になりますので、その対策も必要になりますね。
さて、森村誠一さんの『老いの正体』における「老いの壁」について、さらに考察を進めていきましょう。
まずは、前記事までにおいて示した人生の後編における「五カ条」のことです。
真に平易な提示ですが、これを実行してみると、それぞれが非常に重要であることが解ります。
改めて、それを示しておきましょう。
⑴ 健康であること
⑵ 多少の経済力は持っておく
⑶ 生きがいを持つ、生産性のあることをする
⑷ 仲間がいること
⑸ 身だしなみを忘れない
これらについて、ごく最近の取り組みを披露しておきましょう。
⑴については、寒さ対策、足の冷え対策として光マイクロバブル足浴を一日1回(約1時間)するようになりました。
いつも、この足浴中にここちよくなって寝てしまいます。
ここちよい ➡ まどろみ ➡ うつらうつらの仮眠 ➡ 頭スッキリ ➡ 足の裏がマッカッカ ➡ 靴下を履くと足が冷えなくなる
いつも、このサイクルが再現されています。
これに加えて就寝前には、光マイクロバブル浴を行なうという二重の作戦が効果を発揮しています。
⑶については、後で詳しく述べます。
⑷については、友人のM君にやや長文のメイルを出しました。じつは、昨年12月に、かれと、その後輩の二人で、こちらに訪問したいとの申し入れがありましたが、新型コロナウイルスの感染拡大のために、それが中止になりました。
今年は、その訪問を実現していただき、旧交を温めたいとおもいます。
さて、重要なことは、⑶に関することですので、この考察を進めていきましょう。
森村さんは、次のように、老いと志について述べられています。
「『志』がしぼむと人は老いていく」
老いることは、志を減らすことではないでしょうか。
そうであれば、志を維持し、日々更新していくことができれば老いてはいかぬことになります。
この志とは、「未知なるものを求める力」と定義されています。
未知なるものは、歳を重なていっても、たくさん存在しています。
それを探し求める力を維持し、強化していくことが志を貫くことになる、ということになりますので、肝要なことは、それをひたすら探究していく力を宿していくことではないでしょうか。
年老いて体力は退化しても、逆に豊かな経験を土台にした精神の力を発揮できるのが、老人の特徴です。
そのことは、私がやってきた分野ではないので、解らないことだらけなので、「もういいよ」、「どうせ、いい結果は得られない」と諦めてしまうことがよくあります。
若い時には、解らないことだらけであっても、解ろうとして前に進む力を持っていますが、歳を取ると、それができなくなりそうになります。
そのままへたり込んで諦めてしまうことが「精神の老い」なのです。
しかし、そこが分かれ目になることから、そこで大切なことは、未知に挑戦していく姿勢であり、新しい経験を求める探究心である、こう森村さんは強調されています。
これこそ、「精神の若さ」であり、老いの壁を突破していく原動力といえるのではないでしょうか。
ここで、森村さんが強調されている探究心について、私の経験に照らして少し考えてみましょう。
探し、究めていく心、これはどのようにして養成されていくのでしょうか?
1995年に光マイクロバブルの発生装置を開発、公表することによって、世界に先駆けてこの技術の創成と発展を担うことができました。
この光マイクロバブルの探究の過程は、それが世界で初めてであったことから、どこにも既往の文献がなく、そのことを恨めしくおもったことがありました。
なぜなら、その論文を読むことによって、そこに何かしらの問題点を見つけ、それを改善していくために論考を重なることが常識になっていて、その手法に私もすっかりて手懐けられていたからでした。
手引きにする論文がない、どうしようか?
この時、それは絶好のチャンスだとはおもうことができずに、私の頭のなかが混乱していたことをおもいだします。
しかし、しばらくして、これは諦念するしかない、拙くても自分の頭で考えていくしかない、これが正直な出発点でした。
重要な手助け
こうして光マイクロバブルの科学的探究を始めたのですが、ここで重要な手助けが得られることを見出しました。
それは、光マイクロバブル技術を適用した現場において、次々に驚くような、すなわち吃驚仰天するような結果が次々に私の目の前に現れたからでした。
その代表的事例のひとつが、広島カキ養殖の改善であり、カキ筏の上で夕陽を浴びながら、みごとに成長したカキが光マイクロバブルをうれしそうに浴びていたことを目の当たりにして、いいようのない感動を覚えたことがありました。
この時、このカキは、なぜ、こんなに立派に成長したのであろうか?
光マイクロバブルを浴びたカキが、通常の3倍も開口しいるのは、どうしてなのであろうか?
周囲のカキ筏のカキはほとんど斃死しているのに、光マイクロバブルを供給した筏のカキだけがすくすくと育って元気なのは、なぜであろうか?
このように次々と、その素敵な「なぜ」が湧いてきたのでした。
この過程をよく考察してみると、その現場におけるカキが教えてくれた「なぜ」が、じつは、科学的に重要な探究課題を提供してくれていたのでした。
最初は、よく解らないところだらけであったのが、それでも「試してみよう」とおもって開始したのですが、それによって、より本質的な「なぜ」を与えてくれたのです。
おもしろいのは、この「なぜ」の展開が、より新たな担っていくほどに、より本質に迫っていったのではないかとおもえたことでした。
これは、今でいう、光マイクロバブルの生理活性に関することですが、このような特性があったとは、それこそ夢にもおもいませんでした。
確かな探究の手がかり
この手助けとは、豊かな技術的成果の積み重ねによって、科学的な探究の課題がより明確になり、それを探究する手掛かりと道筋が朧気ながら確かになっていったことでした。
「このように技術的成果が出ているのだから、科学的な探究の道筋は、こうであろう、それで間違いはなさそうだ!」
と判断できるようになりました。
ところが、頭でっかちで、その実践の経験や成果を実感していない場合には、得てして、その科学的探究の道を誤って、はるか見当違いの方向に反れてしまう場合が少なくありません。
そのような離反者に限って、後で、自分の説を密かに修正して誤魔化すことも少なくないようです。
しかし、この場合は、まだよい方で、その修正すらできない方々は、その離反した道をひたすら歩み続けて迷界を彷徨うことになります。
たとえば、マイクロバブルが圧壊して5000℃、10000℃になると、その科学的な論証もできないままに、超音波理論を鵜呑みにして、同じことが起こると主張してはばからないことが、一時期横行していましたが、これらは、その典型的な事例といってもよいでしょう。
私の場合、このいくつかの光マイクロバブルの探究において「未知なるもの」に出会ってきましたが、その経験を重ねるうちに、その未知なるものが多くて、そしてより深いものである方が、その探究を成就した時に、その科学的成果が大きいということが解るようになりました。
その意味で、未知なるものがより多く、より深く、そしてよりとんでもない、あるいは途方もないものほど、それが究明された暁には、科学的な価値が大きく、喜びも大きいという、そのような法則めいたことがあるのではなかとおもいようになりました。
こうなってくると、未知なるものは大歓迎で、「どうぞ、いらっしゃい」と呼んでやりたくなるようです。
以上を振り返ると、この探究心に関しても、その修行を通してより洗練させていくことに「重要な何か」があるのではないでしょうか?
それを探究することが、森村さんのいう「精神的な若さ」であるということのようであり、その若さの発露を、今後も確かめていきたいとおもいます(つづく)。
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