W君からの手紙(2)
昨日の記事の続きです。
昔、かれが棲んでいた新南陽市は、オランダのデルフザイル市と姉妹都市の関係を結んでおり、この交流のなかで、地元の永源山公園に風車を設置しようという話が持ち上がりました。
その後、新南陽市は徳山市他と合併し、周南市となり、その市役所にW君が就職し、その風車の提案を行ったのだそうです。
ホームページで拝見しましたが、その公園には、バタフライ型という大きな風車が、創設されているようで、この風車とのめぐり逢いが、かれの運命を変え始めたのです。
本当に、人生というものはふしぎなものですね。
かれが、その提案を行わなかったら、パースを描いて、自分に絵の才能があることに気付かなかったら、そして、それに気づいたとしても、コツコツと絵を描き続けなかったら、そして、市役所を辞めて画家の道へと踏み出す勇気が無かったら、さらには、コンクールで準グランプリを得ても、ボストン他のアート研修に出かけなかったとしたら、今のかれを形成することができなかったのではないでしょうか。
ここには、一歩前に進んで、自分を「試す」という行為があり、その「試し」のなかで、より確かな本物の自分探しをしていったのだとおもいます。
この間、風車づくりの仕事に出会ってから市役所を退職するまでに22年の歳月を要しています。
この自分探しの道程には、22年という長い時間が必要だったのです。
ここで、私の場合を参考までに吐露しておきましょう。
私は、38歳でT高専の教授になりました。
これも、信頼関係があったF校長のおかげでしたが、それでも、半ば意地悪をする上の方もいて、約4カ月ほど、その昇進を待たされました。
別の方が学位を取得して教授になる資格を得るまで待て、それが、その時の「意地悪」でした。
このF校長が、教員会議において画期的な学級編成に関する提案をしたことがありました。
しかし、その提案は、みなさんから見向きもされず、いわば猛反対を浴びることになりました。
そのなかで、私は、その提案が正しく、進歩的だったことから、その会議の席で賛成であることを勇気をもって発言しました。
されど、結局のところ賛成したのは私のみであり、校長と私が孤立に追い込まれました。
当時の私は、教職員組合の委員長をしていましたので、校長と委員長がわずかに賛成という、ほとんどあり得ない状況が生まれたのでした。
ところで私の昇格は、全国の高専において一番若かったようで、そのことを親しかったM高専のK人事係長が、わざわざ調べて、私に知らせてくださいました。
当時私が考えたことは、
「教授になったら、それにふさわしいことをやろう、決して、その地位に安住せずに新たなことをしよう」
であり、そう心に誓っていました。
当時のT高専では、教員会議の際に座る場所が決められていて、名札のある場所に座るようになっていました。
教授になってから初めての教員会議に臨み、その座る位置がまるで変わっていました。
その時、退屈さのあまり、前の座席位置から新たな座席位置に変わって、何人追い抜いたのかを調べてみたら、なんと15人抜きをしていたようでした。
これは大した話ではありませんが、私が探求しようとおもった「教授らしい仕事」とは、何か、地域に役立つことがあるのではないか、に関することでした。
折しも、親しく支援していただいていた山口県工業技術センターのM所長(当時)から誘われて、ある下水処理プラントの開発委員会に参加したことがありました。
ここに参加して、私が痛感したことは、自分の専門性が、現場にはほとんど役立たないことでした。
世間においてよくいわれている「専門バカ」もいいところで、それには「お粗末な」という修飾を付言してもよいものでした。
ーーー これでは、とても、教授らしい仕事はできないではないか!
こうおもいながら、それでも何かできることはないかと必死で臨んでいたら、そのプラントモデル内の泡の流動に関して、大変な間違いを見つけました。
勇気をもって、その指摘をすると、「みんなそうおもっていた」との賛同が起こり、「それなら、もっとよいものを、先生創ってください」と依頼されました。
軽薄な私は、その時「あぁー、いいですよ」と返答してしまいました。
これが、マイクロバブルを発生させるきっかけとなり、そこから本物のマイクロバブルに出会うまでに、15年を要したのでした。
少し横道に反れましたが、W君がアートに専念すると決断するまでに22年の歳月を有したことは、それが本物の人生の場合においては決して長いものではなく、そこに至るまでには、さまざまな経験と年月が必要だったのではないかとおもいます。
その意味では、市役所というところは、何事も急がず、慌てずに仕事をする場ですので、かれがゆっくり未来のことを考えるには丁度良い職場だったようにおもわれます。
かれの場合、毎年のようにコンクールに出展し、輝かしい賞を受けてきたことが、その決断の正しさと確かさをより深めていったのではないでしょうか。
かれは、この受賞のことを次のように綴(つづ)っています。
「あらゆるコンテストに積極的に応募し、この10年で大賞2回、国際コンペでも入選、以降毎年コンスタントに入賞入選することが出来ています」
こうして遅咲きではありましたが、芸術家としてのかれが立派にでき上っていったのです。
なぜ、転身は可能だったのか?
ここで、ある意味で華麗な転身が、なぜ可能であったのか?
これについてより一層の深掘りをしていくことにしましょう。
そこで、ホームページ上に掲載されている作品をじっくり鑑賞することにしました。
そこには、かれの個性が発揮された、じつにすばらしい現代アートの世界がありました。
あのドジ君が、こんな絵を描くまでになったのか!
時の経過の中で、私には観えない成長があったのかと感嘆しました。
かれの絵のテーマは、混沌な世界のなかで普遍的な美しさを示す平和な女性像にあるのではないかとおもいました。
そのなかに、「現代のモナ・リザ」という絵画もあり、折しも、レオナルド・ダ・ヴィンチのことを勉強し直しているところでもあり、それを観て、レオナルドとの共通性を見出しました。
なぜ、このような絵を描けるようになったのか?
それには、かれの世界観と技術観の発達があったのではないかとおもいます。
それらは、高専に入ったときの無目的と劣等感、そこでの卒業研究を通して身に付けた科学観、市役所に入っての公共性、また人々に奉仕するという献身性、そして、あの「3.11」が起きた3日後にアメリカでのアート研修から帰国し、祖国の破壊をまざまざと見せつけられた社会観、さらには、現在も続いている戦争、忍び寄るエネルギーと食糧の危機などの世界観、これらが積み重なって、それらが平和の女性像に具現化されているようにおもわれました。
このようなことが可能になった奥底には、かれが、高専で土木工学という技術を学び、それを生かそうと市役所で働き、そこからアートの経験を増やしていったことで自分を見出していったことがあり、ここには、レオナルドと同じ、芸術性と科学性の両方を兼ね備えていたことで、その地力を粘り強く育てることができたのではないでしょうか。
ドジ君には、決して派手ではないが、良い意味での執拗さがあり、50歳代の前半において、それを遂に開花させることができたようですね。
かれは52歳で市役所を辞めてアートの道に進みましたが、かれとほぼ同じ年齢の53歳で、歴史小説家になった人に葉室麟がいます。
かれも、最初は積極的にコンテストに応募し、次々に受賞され、押しも押されぬ作家になっていきました。
67歳でなくなるまでに403の作品を書き貫かれたそうです。
邪(よこしま)を決して許さず、ひたむきに正義を貫いていく下級武士の生きざま、芸術を通して自分を見出していく画家や彫刻家の真摯な探究などが、小説の主なテーマになっており、ここにもW君と似たところがあるようにおもわれました。
ドジ君、そしてW君、どうか、これからも精進と洗練を重ね、葉室さん以上の仕事をして、すばらしい絵画を産み出してください。
最後に、かれの手紙の最後に書かれていた次の文書を示して、筆をおくことにしましょう。
「(戦争や地震、感染症など)、こうした不安定な時代にアートの製作をするのであれば、アートの中に何か心に感動していただけるものを伝えたいと思っています」
フレー、フレー、ドジ、W(M.W)!
さらに活躍して、あなたをカモにしていたH君の腰を抜かしましょう!
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