W君からの手紙
今年は何かすばらしいことが起こるのではないか、という予感がしていましたが、どうやら、その気配が漂い始めたようです。
映画『素晴らしき哉、人生』に因めば、あの天使にも羽根が生え始めたのかもしれませんね。
昨日、かつてのT高専の時の教え子のW君から手紙が届きました。
直筆の達筆な宛名書きの封筒でした。
たしか、かれからの手紙は初めてのことであり、それは、かれが高専を卒業して以来のことですので、じつに46年ぶりのことでした。
懐かしさも覚えて、早速開封してみると、高専から今までの想いと人生が真摯に語られていました。
かれは、卒業研究において私の研究室にやってきて、一緒にホットな研究生活を過ごしたことがありました。
この時に、同じ卒業研究メンバーとして、H君、N君がいました。
かれらは、もう一人のI君も含めて、成績はラスト3の「兵(つわもの)」であり、まことに賑やかでした。
とくに、H君は、その賑やかさにおいてはリーダー格で、かれとW君も、おもしろい関係でした。
H君は、W君のことを「ドジ」、「ドジ」と呼び、何かにつけて、かれにちょっかいをかけては喜ぶ性格でした。
H君は、W君のことを「ドジ」、「ドジ」と呼び、何かにつけて、かれにちょっかいをかけては喜ぶ性格でした。
一方の、H君から仕掛けられW君は、何か、考えていることが定まらず、あっち行き、こっち行きの状態でしたので、そこをH君から付け込まれる弱点を有していました。
そのH君が、それこそ毎日のように、「ドジがどうした、こうした」と報告にくるので、自然に、私も、「ドジがどうしたの?」、「ドジは大丈夫か?」といって、かれのことを「ドジ」と呼ぶようになっていました。
そのH君が、それこそ毎日のように、「ドジがどうした、こうした」と報告にくるので、自然に、私も、「ドジがどうしたの?」、「ドジは大丈夫か?」といって、かれのことを「ドジ」と呼ぶようになっていました。
その後、韓流ドラマのなかでホジュンという力作をよく視ましたが、そのライバルが「ドジ」という名前でしたので、その時に元祖のドジ君のことをよくおもいだしていました。
かれは、その当時のことを次のように述懐されていました。
「高専時代は、進路担任のいわれるままに(高専に、括弧内は筆者、以下同じ)進学しましたが、自分の思いと合致せず目標の持てない劣等生でした」
こう、過去の自分のことを素直にいえるところが、かれらしいですね。
かれは、T高専の第一期生として入学してきました。
かなりの倍率での入学でしたので、もともとかれは優秀だったのではないかとおもわれます。
しかし、かれがめざしていたものと高専が馴染まず、その迷いから抜け出ることができないままに、その1年生を二度行うことになりました。
そこで、H、N、Iの劣等トリオと親しくなり、かれらの存在が、ふしぎなことに、かれを励ますことになったのでした。
そこで、H、N、Iの劣等トリオと親しくなり、かれらの存在が、ふしぎなことに、かれを励ますことになったのでした。
「俺よりも成績が悪い奴が3人もいる!」
劣等生と呼ばれていたW君にとっては、その3人が、きっとよい、心が安まる仲間だったのではないでしょうか。
当時の私は助教授になったばかりの28歳、若くて元気がありました。
かれらを卒業研究生として迎えた頃は、T高専に赴任して4年目であり、何もなかった実験室に各種の装置が配備され、ようやく実験らしい実験ができるようになっていました。
今でも、よくおもい出すのは、深夜から朝方まで実験室で、かれらと一緒に実験を夢中になってやっていたことです。
そのH君は、校内に在った寮の寄宿生であり、夜中によく抜け出しては、実験をおもしろがってやってくれました。
たしかこの時、W君と一緒に実験を行っていましたので、H君が、しつこく、どのように実験を行うかを尋ねてきても、まじめに返事をせず、「その辺にある物を混ぜてやってごらん」と生半可な返答をしていました。
そしたら、ただでさえ賑やかなH君が、
「ギャー、先生、これは何ですか?」
と、ますます大きな声で喚(わめ)いていました。
それがあまりにも大仰でしたので、かれ特製の液体を流した水路に目をやって、今度は、私が吃驚仰天しました。
そこには、真にふしぎな模様が形成されていたのでした。
もうこうなると、それに見惚れてしまい、W君の実験は、そっちのけの状態になっていて、かれも一緒になって、その水路一面に形成された模様を眺めていたのでした。
その間、当の本人のH君は、何度も、「これは何ですか?」と尋ねてきましたが、それは馬の耳に念仏でしかなく、内心「そんなことが解るわけがない」とおもいながらじっと、そのふしぎな模様と動きを見続けていました。
結局、その夜は、それを見続けて、気が付けば朝になっていました。
もちろん、H君もW君も同じで、一緒に朝を迎えたのでした。
その後、このふしぎな模様のことが頭から離れることはなく、その現象を調べていくうちに、それは、乱流現象における本質の一部を可視化したものであることが解りました。
結局、その夜は、それを見続けて、気が付けば朝になっていました。
もちろん、H君もW君も同じで、一緒に朝を迎えたのでした。
その後、このふしぎな模様のことが頭から離れることはなく、その現象を調べていくうちに、それは、乱流現象における本質の一部を可視化したものであることが解りました。
そして、この現象の科学的特徴を考察したのが、私の博士論文の第二章となりました。
H君とW君たちとは、私にとっても貴重な、すばらしい思い出が宿る出来事を共に経験したのでした。
こうして、W君も、立派に卒業研究をやり終えて卒業し、地元の市役所に就職していきました。
因みに、H君は、大学、大学院に進学し、立派な修士論文を書いて、日本を代表する水道のコンサルタントに入り、最後は本社の部長にまで昇進していきました。
さて、ここでW君のことは、途切れてしまい、前述のように、じつに46年ぶりの手紙を初めていただくことになったのでした。
W君は、市役所に勤めるようになってからは、立派に仕事をしていたようで、そのころには、かれの学生時代に抱いていた劣等生意識は完全に消え失せていました。
アートへの目覚め
W君は、市役所に勤めるようになってからは、立派に仕事をしていたようで、そのころには、かれの学生時代に抱いていた劣等生意識は完全に消え失せていました。
風の便りでは、かれが、オランダの風車を地元の公園に設置する仕事をなさっていて、非常によく頑張っていることを聞き、私も喜んでいました。
その時のことを、かれは、次のように語っています。
「公務員30歳の時に永源山公園の山頂に本物の風車を造ることを提案したことです。
そのパースを描くに当たり、自分の絵が上手いことに気が付き、それで少しずつ作品を創るようになりました」
この創作が花開いたのは、講談社主催のアートコンクールでの準グランプリを受賞した時で、その副賞として、ボストン、ニューヨークへのアート研修に招待されました。
これによって、市役所を早期退社してアートの道を歩むことを決められたのだそうです。
ここで、重要なことは、かれが、自分の才能に気付き、それが自分の求めたことだと認識して、新たな道であるアートの世界に入っていくことを決めることができたことです。
1)よく考えずに高専に入り、目的を持たないままに劣等生になって留年したこと
2)その留年したクラスには、かれ以上の劣等性が3人もいたこと、卒業研究では、懇切丁寧に日夜指導されて実験の日々を送ったこと
3)地元の市役所に就職して、普通に仕事をしながら、風車の創設を提案し、その担当者になったこと
4)そこでパーツを描きながら、自分の絵の才能に目覚めたこと、コツコツと好きな絵を描きながらコンクールに応募して入賞したこと
5)さらには、その受賞でアメリカへのアート研修ができたこと
これらの軌跡には、かれが、幼い劣等意識のなかで、それに打ち勝って、徐々に成長し、自分を見出していったことがみごとに展開されています。
私が好きな映画の一つである、トム・ハンクス主演の『フォーレスト・ガンプ 一期一会』がありますが、このW君の歩んできた軌跡は、このフォーレストのそれに瓜二つ、真によく似ています。
人生における、その時、その時において、悩みながらも真正面から真摯に取り組んでいくことで、劣等意識や目の前の壁を少しずつ解消して、時間をかけても必ず、仕事をやり遂げ、そのなかに自分を見出していくことができたことにこそ、洗練されたすばらしさがあるのではないでしょうか。
あのドジ君が、ここまで立派に成長できたのか!
これは驚きであり、大変な喜びが込み上げてきたのでした。
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