新自由主義の嵐のなかで

 1991年の日本経済のバブル崩壊以後、わが国の産業は衰退の一途を繰り返し、その後の「失われた10年」は、それで終わらず、「20年」、「30年」と、ずるずる続いていきました。

 その世の中は、モノよりも金で牽引され、溢れかえった投機マネーによって支配されるようになりました。

 「今だけ、金だけ、自分だけ」「弱肉強食」「格差拡大」などが、さも当たり前であるかのようにまかり通り、「昭和のよき時代」「黄金の30年」「モノづくりは永遠なり」は、遠い過去にの彼方に追いやられてしまったようです。

 なぜ、このように情けない世の中になってしまったのでしょうか?

 これには、特異ともいえる「アメリカと日本の従属関係の進化」が色濃く関係しています。

 戦後、サンフランシスコ条約によって、わが国は、名目上は一応の独立を果たしたものの、その後の日米安保条約によって、わが国は、アメリカの目下の徹底的な従属国として扱われてきました。

 具体的には、日米合同委員会においてアメリカから示された指示を忠実に実行していくシステムが定着していきました。

 その下で、最近の為政者たちは、むしろアメリカが喜ぶ施策を積極的に提案するようになり、この従属関係が、ますます歪に進行していくようになりました。

 この政治経済的従属の深化とともに、企業においてもアメリカの多国籍企業化においても、それに従属した日本企業によるそれが進行したことで、日本国内の空洞化が著しくなりました。

 その結果、内需をますます冷え込ませることになり、自らの首を自縛していきました。

 こうして「失われた30年」において、「科学技術立国」、「モノづくり立国」という看板は脆くも崩れ去り、いわば「投機マネーのため」ともいうべき「金融資本主義」の世の中に変貌していったのです。

 昔よくいわれていた、「アメリカの25年遅れの姿が日本だ!」の通りの現象が起こり、製造業が廃れ、多国籍企業化、そして未曽有の赤字大国へと変貌していたアメリカの歩んできた軌跡を、より跛行的に直(ひた)走っているのが日本なのです。

 そして、2008年には、リーマンショックという大恐慌が発生しました。

 日本でも株価が大暴落して日経株価が7000円を切るまでに落ち込みました。

 1991年の日本経済のバブル崩壊からの回復ができないままに、追い打ちをかけるようにリーマンショックが襲い掛かり、日本の産業における衰退は、さらに加速度的に進行していくことになりました。

 このリーマンショックによる金融諸本主義の破綻は、当のアメリカに留まらず、欧州各国にも拡大していきましたが、その不況を吸収し、回復へと向かわせたのが、著しい経済成長を遂げていた中國でした。

 この対応によって、中国は、GDPにおいて日本を抜いて世界第二位に躍り出たのでした。

 これによって、それまで、日本における最大の輸出国であったアメリカに代わって中国が最大の輸出国へと切り替わっていきました。

 リーマンショックで青色吐息になっていたアメリカよりも、成長が著しい中国への輸出が増えていったことは、むしろ自然なことでしたが、この過程で、日本企業には、ある意味での「安住」がありました。

 それは、円安によって中国への輸出がより安易になり、利益を得ることができたからでした。

 日本の企業における利益率は平均3%だといわれています。

 これよりも、より円安が進めば、何もせずに利益を得ることができたことから、こんな上手い話はない、このような考えが蔓延るようになっていったのです。

 経済学者の野口悠紀雄氏は、「円安は麻薬だ!」といっていますが、それが、この30年間において日本列島という身体の中に沁みわたっていき、企業経営者をしだいに萎えさせていったのです。

 この対中国における円安利益の確保によって、さらには、昨今の1ドル152円にまで上昇した円安によって、日本の輸出企業は、それこそ史上最大の利益を得ることができました。

 この対中国、対アメリカ輸出における円安による利益の確保が続いた20年、30年によって、かつてのモノづくり精神は廃れ、遠い過去に追いやられてしまったのではないでしょうか?


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雪と太陽

 せっかく、優れた先輩たちが苦労して創り上げてきた、日本人の伝統にもなってきた「モノづくり精神」を弛緩させ、萎えさせ、そして喪失させようとしている、という重大問題を誘起させてきたのです。

 この衰退と廃れが、精神のなかまで侵入してくると、簡単には、そこから抜け出すことはできません。

 ましてや、そのブレイクスルーによる革新を得ることは非常に困難になっています。

 口元では、「イノベーション」、「イノベーション」小鳥のように囀(さえず)りながら、その技術、経済、社会において、それを起こすことができなくなって久しいのではないでしょうか。

 おそらく、上質のイノベーションの独創的なシーズが誕生しても、それに火を点けるには10年余の歳月が必要であり、そのうち時の経過とともに忘れ去られ、消失していくのではないでしょうか?

 しかし、この衰退と廃れのなかで、どう踏みとどまり、どう再生して回復していくのか、この探究のなかで新たな「モノづくり日本」を、どう構築していくのか?

 これらの課題が、私たちの前に与えられていることも事実であり、そのために、この荒野に踏み入り、たくましく歩を進めていくことも大切なことのようにおもわれます。 

ダ・ヴィンチのモノづくり

 モノづくり精神の原点は、レオナルド・ダ・ヴィンチにあるのではないか、これが、本稿を認める際に、最初に想い浮かんだことでした。

 若い時から、かれのことが気になっていて、何度か、その仕事について勉強をしたことがあったのですが、悔しいことに、それが実を結ぶことはありませんでした。

 それは、モナ・リザを始めとする絵画の印象が強く、そのほかの各種技術については、何か付け足しのように感じられていたからであり、そのために、かれの本性を鋭く洞察できていなかったことに大きな原因があったような気がしています。

 この度、偶々(たまたま)、娘が読んでいた、
ダ・ヴィンチ研究者で、物理学者のレナード・シュレインの次の単行本を目にして、試しに少し読んでみて、はっと吃驚しました。

 『レオナルド・ダ・ヴィンチの左脳と右脳を科学する』ブッケン社、2,006年

 かれは、ガンで生命が途絶える直前まで、この執筆を行っていたそうです。

 いわば、命を懸けた本ですので、それだけの迫力と心情が随所に示され、滲んでいました。

 冒頭に、かれは、ダ・ヴィンチのことを、芸術家であり、同時に科学者であった歴史上ただ一人の人物であったと指摘しています。

 この本を読み進めていくことによって、その鋭い洞察の意味が、より深く理解できるようになりました。

 そして、ここに「モノづくり」の精神的原点がある、この人類史における偉大な先輩から学ぶことが大切ではないか、こうおもい、確信するようになりました。

 かれの優れた洞察は、100年も200年も早すぎた、その結果を生かすには、科学も技術も、それだけの時のなかでの発達を待つしかなかった、これがシュレインさんの重要な指摘です。

 おかげで、創造力とは何か、そして、その発露による技術的開発とは何か、そして、それらとダ・ヴィンチの芸術性が、どう融合していたのかなど、これらが、少しずつおぼろげながら解りかけてきたようにおもわれます。

 さぁー、今、これから、そのモノづくりの源流を訪ねていくことにしましょう(つづく)。

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洗礼者ヨハネ(レオナルド・ダ・ヴィンチ、1513-1516)
『レオナルド・ダ・ヴィンチの左脳と右脳を科学する』より引用