崋山と長英(7)

 渡辺崋山は、吉田松陰の弟子であった若き高杉晋作が、上海視察によって密かに討幕を決意し、そのための対抗勢力を作るために熱烈な「攘夷論者」になって賛同者を集めていったことに小さくない感動を得ていました。

 小藩とはいえ、田村藩の家老にあった崋山と同じ上級の侍の長男であった晋作が、このような目標に到達したことに、崋山は、驚きとともに羨ましさを覚えていました。

 なぜなら、封建制の頂点であった徳川幕府を倒そうとおもったことはなかったからであり、晋作の直観と洞察力に脱帽したからでした。 

高杉の直観力

 「長英さん、高杉晋作の直観力は素晴らしいですよ。

 義和団の女性や子供たちまでが、清の政府を倒そうとして身体を投げ出して闘っている姿を見せつけられて吃驚仰天し、そこで、『俺がやることは幕府を倒すことだ!』と悟ったことです。

 この若者は、それまで一度も考えたことすらなかった『討幕』を密かに決意して上海から帰って、それをすぐに実行し始めたのですから、それは、私たちにはない実践力です」


 「崋山さん、あなたの見通しの通りに、歴史は動いていきましたね。

 これまで侍たちは、自分たちが敵と戦い、政治を行うのだと自負してきました。

 もっとも、関ヶ原以来、農民たちは戦に駆り出されて侍たちの指示によって戦に参加してきました。

 しかし、それは臨時の傭兵であり、正規の常備軍ではありませんでした。

 一方、西洋においては、正規の軍隊には、身分にかかわりなく、だれでも応募できて雇われていました。

 たとえ農民であっても、その試験に合格すれば軍隊の一員になり、活躍しだいで出世していくこともできたのです。

 高杉晋作が創った『奇兵隊』は、西洋軍隊の方式そのものでした。

 食べていく事さえできなかった農家の次男、三男にとって、奇兵隊に入れば、食べていくことができたし、これまで年貢の取り立てで苦しんでいたことからも解放されたのです」

 「当初、長州藩の保守派は、吉田松陰や高杉晋作をかばって、なにかと陰で支援してきた周布正之助の追放に成功し、高杉らが蜂起しても大したことにはならない、とおもっていました。

 いわば、高をくくっていたのです。

 しかし、実際には、そうならずに、かれらの予想はみごとに外れました」
 
 「どのように、的が外れたのですか?

 「そこが、晋作の戦術家としても優れたところで、かれは功山寺において10数名で決起した直後に、防府の船舶置き場を襲撃し、長州藩の軍艦を奪取しました。

 これで、長州藩の海軍力がほぼゼロになり、それを操って萩沖まで行って、空砲で脅し、長州藩の保守派を震撼させ続けたのでした」

 「上海で熱心に見学した軍艦を自分で運転して、萩沖まで進めたのですから、これは驚きです。

 きっと直観が鋭い男で、軍艦を操縦する方法においても呑み込みが早かったのでしょう」 

 「軍艦をわが物にする、これが、その戦いの肝だったのです。

 この評判が長州藩に広がり、続々と騎兵隊への志願者が増えていき、陸戦においても勝利を得るようになっていきました」

 
「短期間の上海視察のみで、そこまでの理解と実戦をやらかした晋作は、崋山さん、私たちをはるかに超えたことをしでかしたことになりますね」

 「まことに恥ずかしいことですが、私は、封建制の権化といってもよい徳川幕府を倒すことなど夢にもおもいませんでした。

 あの大塩平八郎でさえも、少しも討幕を考えたことはなかったおもいます

 「それが時代の変化、歴史の醍醐味というものでしょうか。

 しかし、そのかれも、若くして病死し、その討幕を目にすることはできませんでした」

「花神」
 
 「それでも、吉田松陰と高杉晋作による草莽崛起(そうもうくっき)の嵐は衰えて消えることはなく、ますます強大に吹き荒れました。

 それが、長州征伐を迎え撃った戦であり、ここで、長州藩は、みごとに幕府軍を打ち負かしていきます。

 生前の晋作は、周防大島に停泊していた幕府の軍艦を、小舟のような長州藩の軍船で夜間襲撃し、壊滅させました。

 これで、海からの攻撃ができなくなった幕府軍は、陸戦に頼るしかありませんでした。

 ここでは、『花神』とまでいわれた大村益次郎が登場してきます


 「それは元を辿れば、私と同じシーボルトの鳴滝塾生だった二宮敬作の計略でした。

 私が宇和島の伊達公に招聘されたのも、かれの推薦があったからですが、そこから私が去った後に、村田蔵六、後の大村益次郎を伊達公に推薦したのも、かれでした。

 村田は、日田の広瀬淡窓に国学を学び、緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んでいましたので、私の後を継ぐのに適した人物であり、その進んだ西洋の軍事技術をより取り入れたいとおもっていた伊達公にとっては、うってつけの人物でした。

 私にしても、かれが宇和島での仕事をより発展させてくれ、その成果を長州征伐における迎撃戦で生かしていただいたことをうれしくおもっています」

 「大村さんは、シーボルト先生の娘の『おイネ』さんとも宇和島で親交があったそうですね

 「ありましたね。そのきっかけを作ったのも二宮で、おイネさんを呼んで匿ったのも二宮です。

 かれは酒好きで、飲んだくれで、私ともよく飲み明かした仲ですが、人を招くことに関しては、真に優れた男でした

 「大村さんは、あなたが訳されて伊達公に報告したものをすべて読破され、勉強されたそうですが、しかも、あなたの設計図通りに砲台まで建設されました。

 かれの戦略と戦術方法には、あなたの軍事哲学が生きているのではないでしょうか?

 「そうかもしれません」

 「奇兵隊を勝利に導いたのは、ミニェー銃という最新式の鉄砲を3人一組で持っていてゲリラ的な戦法にあったと聞いています。

 この戦法については、長英さん、あなたは、どう評価されますか?

 「それが、大勢の敵方に向かって少数派が戦う西洋の戦法の一つであり、大村は、それをみごとに実戦において適用し、成功させたのだとおもいます。

 敵方は、この最新式の銃を用いた戦法に驚き、さぞかし恐れおののいたことでしょう。

 奇兵隊と、この最新式の戦法が、まさに『鬼に金棒』になっていったのです。

 イタリアには、優れた軍事技術者として著名なレオナルド・ダ・ビンチという方がおられました。

 もし当時の軍人のなかに高杉晋作のように実戦に優れた方がいたならば、ダ・ビンチさんも大いに助かったのではないでしょうか」

 「長英さん、あなたの口から、その巨匠の話が出てくるとはおもいませんでした。

 じつは、その方について、私は大変興味を抱いておりました。

 なんとか、かれのことを知りたいとおもって友人に、かれの情報はないかと探し続けていました」

 「そうであれば、シーボルト先生が、上京されたときに、助手のハインリヒ・ビュルゲルとの会談の際に、その話が出たのではないですか?

 「もちろん、こちらから尋ねました。かれは、ダ・ビンチのことを懇切丁寧に解説してくれました。

 そして、かれの代表作が、『モナ・リザ』、『最後の晩餐』などがあることを教えていただきました」

 「その絵を実際に見たのですか?」

 「いえ、残念ながら、話で聞いただけでした


 「私も、西洋の文献において、そのような素晴らしい絵画があることを知っていました。

 しかし、実際に、モナ・リザや最後の晩餐を見たことはなく、一度見てみたいとおもっていました」

 「そうですか、今から100年以上も前に、そのような絵画の文化があり、偉大な芸術家がいるということは、大変な驚きでした」

 「それは、そうでしょう。

 長く鎖国が続いたことで、西洋の進んだ科学技術や文化に対して、わが国は相当に遅れてしまいました」

 こうして、二人は、いつのまにか、ダ・ビンチ論を夢中になって論じ始めたのでした。

 次回は、そこに分け入るとともに、崋山の芸術性について踏み込むことにしましょう(つづく)。

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      五郎像(渡辺崋山、『原色日本の美術(小学館)』より引用)