「特研」の凄さ
K高専一般科目における「特研」の凄さは、それを遂行した高専生自身によってみごとに証明されました。
ここでは、H先生が担当されていた、ある女子学生における、おもしろいエピソードを紹介しておきましょう。
彼女は、土木系学科の3年生でした。
成績は、さほど芳しくなく、下位に近い方でした。
学業やクラブ活動においても、そんなに積極性はなく、目立たない存在でした。
その女子学生が、H先生のところにやってきて、特研において自分が研究するテーマを決めることになりました。
しかし、それがなかなか決まらず、H先生もやきもきされていましたが、そこを我慢して、先生らしく、気長に、その決定を待っていました。
そしてようやく、それが決まりましたが、そのテーマは、たしか環境や土木に関することではなかったようにおもわれます。
この特研では、最終的に論文を提出し、プレゼンテーションを行うことで合否が決められます。
この論文を書くには、さまざまな調査研究を行う必要がありますが、それがなかなか進みませんでした。
周囲の友人たちも、その進捗具合が進まないことを心配していました。
周囲の友人たちも、その進捗具合が進まないことを心配していました。
ここでも、H先生は、忍耐強く指導を重ねられ、彼女の頑張りを気長に待っていました。
その指導が功を奏したのでしょうか?
徐々に彼女の調査研究は進み始め、その途中からは、とんでもなく進展していくようになりました。
彼女は、その調査研究に基づくレポート書きに熱中し始めると、そこに全力を注ぐようになり、最終的に提出した論文において、400字詰め原稿で、なんと409枚も書き上げていたのでした。
これには、さすがのH先生も吃驚仰天し、彼女の熱意と底力を思い知ったのでした。
好きなことを自由に、決して急がず、慌てず、しかし、地道に粘り強く進めることで、それがおもしろくなって熱中し、最後には、膨大なレポートを書き上げたことには、どんな意味と教育成果があったのでしょうか?
そのことは、何よりも、その後の彼女の行動と進路、そして、その後の仕事によって示されたのでした。
勉学にあまり熱心でなく、積極的でなかった彼女は、そのみごとに変身し、4年、5年の成績で、まずトップになりました。
その成績が評価されて、長岡技術科学大学に進みました。
ここでも優秀な成績を修め、イギリスのオックスフォード大学に入ります。
ここで、語学を勉強し直し、そこを卒業した後は外交官になってアメリカで仕事をするようになりました。
3年生の時の「特研」の取り組みで、自分自身を見直し、プラス思考になって取り組んだことで自信を持ち、何事もアクティブに取り組むようになり、自分自身の人生を変革していったのでした。
彼女が、特研において409ページの論文を書くことがなければ、おそらくまったく違う人生を歩んでいったのではないでしょうか?
いわば、彼女は、特研のなかで「探究心に火を点けられた」のであり、その探究心の火が、その後の彼女の人生を切り拓いていったのです。
ここに、K高専特研のすばらしさ、すごさがあったのではないでしょうか!
この活動の成果を足場として、H先生の教育理論活動は、さらに発展していきました。
「良識ある市民教育」
この「特研」成果を踏まえ、高専における教養、人格形成のあり方が、より本質的に探究されるようになっていきました。
それは、15歳から20歳までの5年間において、どのように青年が大人になっていくのか、その大人になっていくための教養とは何か、その大人化のためのプログラムをどう作っていけばよいのか、これらが重要な研究課題として明らかにされました。
技術を学ぶための自然科学的素養、技術者として生きていくための人文・社会学的素養、豊かな人格形成能力、これらを養成していく目標を、どのように明察するのか、ここが核心的問題になりました。
そして、その理論的到達点が、「良識ある市民」として教育することでした。
この社会市民教育論をより本質的に発展させていこう、これをみなさんに呼びかけていこうとされていたのが、H先生でもありました。
さて、こうして、H先生は、N学会における理論的支柱になってこられましたが、先生の活動は、それだけに留まらず、次の非常に重要な役割を果たされてきました。
それが、副会長として、会長の私といっしょにコンビを組んでの、次の重要な取り組みでした。
①N学会の技術者教育研究所の所長として、N学会「連続シンポジウム」の企画と開催に尽力されました。
私は、その事務局長として補佐を行いました。
②論文審査委員会委員長として、N学会誌に投稿された論文審査を行い、その水準の高度化に努めました。
私も、その論文審査委員に参加しました。
この審査においては、論文投稿数を増やすために、年会において優れた講演発表を「行った方に、論文投稿を行なうように推薦することを制度化しました。
また、実際の論文審査においては、投稿規定に基づいて厳正に行うとともに、投稿者の事情も考慮して、よりよい論文に仕上げていくために審査委員としても支援を行っていくことに努めました。
投稿者を育てながら、共によりよい論文に仕上げていくことは簡単なことではありませんでしたが、H先生は、やりがいのある重要な仕事であると仰られていました。
③当時のN学会は、小さくない赤字運営を余儀なくされていましたので、この積極的な黒字化を図ることにしました。
具体的には、創立10周年を記念して募金を行なうこと、社会的に有益なシンポジウムを開催し、その収益を得るようにしました。
その際、H先生は、自らの退職金から、ぽんと50万円を快く寄付されました。
これがきっかけになって、目標に近い募金が集まり、私も助かりました。
また、シンポジウムの収益においては、予想以上の目標額を達成し、その後の円滑な学会運営に役立つことになりました。
最後に、H先生の人柄についても述べておきましょう。
いつも、スーツにネクタイの服装で、ダンディズムを追求されていました。
控え目でやさしく、懐の深い先生でした。
そして、日頃は穏やかでしたが、酒が好きで、飲むほどに雄弁になり、とことん話を尽くす方でもありました。
電話で毎日のように語り合ったこともあり、よき師、よき友、良き仲間でもありました。
H先生、どうか安らかにお眠りください。
遺された課題は、私たちで、より一層の探究心の火を燃やして解決していくことにしましょう(つづく)。
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