崋山と長英(6)

 渡辺崋山が注目したのは、高杉晋作の上海視察でした。

 「長英さん、私が高杉晋作に注目しているのは、かれが幕府が募集した上海視察に応募して選ばれたことでした。

 短期間における視察でしたが、実際に自分の目で外国の事情を見て、その先進的な事例をいくつも学んできたことが、非常に大きな刺激となり、かれを根本的に変えてしまったのではないかと推察しています」


 「おもしろい指摘ですね。外国の先進事例を学ぶことによって、人が大きく変わっていくことは、私にも当てはまることですが、その外国の先進事例を基にして、わが国のことを考え直す、という新たな視点の形成がなされることは、非常に重要なことですね。

 私の場合は、シーボルト先生の指導の下で、西洋の文献を片っ端から読んでいくことで大変な刺激を受けました。

 高杉は、直観になかなか優れていて、度胸もあり、
英・米・仏・オランダの連合艦隊の司令官たちを前にして堂々と敗戦交渉に臨み、自分たちは決して負けていないと、一歩も後退しなかったと主張したそうです。

 これに対し、司令官たちは、現に負けて逃亡していったではないかと反論したら、あれは逃げたのではない、お前たちを誘って陸戦を行なうためだったのだといい、かれらを呆れさせて、その敗戦責任をうやむやにしたというのですから、真にゆかいな男ですよ。

 そのおもしろい若者が、上海で何を視てきたというのですか?」

 「なるほど、あなたは、非常におもしろい観察をなさりますね。

 やはり、西洋の学問を究めた方は違います。

 あなたを執拗にマークした幕府の老中たちの気持ちがわかりますよ!

 「何をいっていますか、それは、あなたも同じでしょう。

 小藩とはいえども、幕府の政治経済、外交の在り方について自論を展開してきたあなたこそ、要注意人物だったのではないですか?」

 「そうかもしれませんね。

 高杉は、一緒に行った幕府の役人たちと離れて、すぐに単独で上海を見て歩くようになりました。

 かれが、一番興味を持ったのは軍艦であり、それをどう使い、どう動かしてるのかを調べることでした。

 当時の上海には、英米仏蘭などの軍船が停泊していましたので、それを見たかったのでした」

 「なるほど、高杉らしい行動ですね。

 ただ、それらの軍艦を見ただけでは、ほとんど何も解らなかったのではないですか?

 軍艦は、外から見てすぐに解るような代物ではありませんよ」 

 「その通りで、かれは、その軍艦の乗組員に会いに行ったそうですよ。

 そして、その乗組員から、軍艦の基本は、機械工学とかいう学問で成り立っていることを教えてもらい、その文献も貰ってきたそうです」

 
「やはり、高杉は、並みの若者とは違いますね。目の付け所が違っていて、自分が知りたいこと、観てみたいことの要領を心得ていたようです。

 軍艦を始めとする軍事技術や機械工学ついては、普通の侍であれば、ちんぷんかんぷんのはずですが、直観に優れた高杉は、すぐに大切なところを学び、要領よく理解を進めたのだとおもいます」

 「なるほど、それを聞くと、高杉という若者は、ますます、あなたによく似ていますね

 「そういわれると、そうかもしれませんね。

 かれのことが、いささか気になり始めました」

高杉の大転換
 
 「そうでしょうね。私もよく解ります。

 さて、高杉の上海視察において、もう一つ重要なことが起きていたのではないか?

 そのことが、帰国してからのかれの『大転換』に結びついたのではないかと推測しています

 「『大転換?』、それは穏やかな話ではなさそうですね。

 いったい、かれに何があったのですか?それも大いに気になりますね」

 「上海から帰ってきたきた高杉は、まるで別人のように違うことをいい始めました。

 それは、かつて、双璧といわれた久坂玄瑞らが唱えていた『攘夷』を大合唱し始めたことでした。

 しかし、高杉は、久坂らが京に攻め上った戦いには参加しませんでした。

 長英さん、それは、なぜだとおもいますか?」

 「そうだよね。なぜ、高杉は、京に攻め上らなかったのか、そのことが上海視察に関係していたというのですか?」

 「鋭いですね、じつは、高杉は、上海で、義和団の女性リーダーと出会っていたのです。

 外国船を視察していた時に、清国政府と闘って傷ついていた女性を助けたことがあったのです。

 それをきっかけに、高杉は、義和団の連中と親しくなりました。

 そして、その義和団が、清国政府を倒そうとしていたことを知り、吃驚したのでした。

 それまで、高杉は、幕府に逆らうことは在っても、倒そうとおもったことは一度もありませんでした。

 それなのに、義和団の女性や子供たちまでもが、政府を転覆させようとして闘っていることは信じがたいことでした。

 高杉は、その闘う女性にほのかな想いを覚え、彼女もそれを理解し、同じ想いを抱くようになりますが、そのために、義和団の闘いを止めることは到底できないことでした。

 しかし、高杉は、彼女の闘いを直接目にして、自分の為すべきことは、幕府を倒すことだと確信したのです」

 「その倒幕と攘夷は、どう関係しているのですか?

 「それが、大戦略者としての真骨頂なのです。

 かれは、密かに討幕を決意していたのですが、それをすぐに主張すれば、長州藩をまとめることはできないとおもい、それを可能にするには、『攘夷』の大合唱しかないと考えたのです。

 これによって、これまで熱心な攘夷論者でなかった高杉まで、それをいいはじめたということで、長州藩の世論を盛り上げてまとめていくことに成功したのでした。

 同時に、高杉は、その倒幕の準備を用意周到に行っていったのでした

 「その準備とは?」

 「それも、現地で観た義和団から学んだことであり、そこには女性や子供たちまで参加して実際に討幕の闘いを行っていたのです。

 この闘いを知って、高杉の目から鱗が落ちたのです。

 幕府と闘うのは武士のみではなく、農民や女性であってもよいのではないか。

 そのことが、『奇兵隊』を結成させた原動力になりました」

 「なるほど、高杉という若者は、機を見るに敏、動くこと疾風の如し、といわれるようになったようですが、倒幕といい、奇兵隊といい、とんでもないことを考え、即実行に移す若者だったのですね。

 このような若者を抱えていた長州藩の保守派は、さぞかし大変だったでしょうね」

 まだまだ、二人の話し合いは続いていきましたが、じつにおもしろい高杉晋作談義となっていきました。

 上海において高杉が機械工学に関心を寄せて勉強をしたことは、司馬遼太郎の『世に棲む日日』から、また、高杉と義和団の接触、交流の話は、葉室麟作の『春風伝』を参考にしました。

 この後、高杉晋作は、攘夷の大合唱のエネルギーを「倒幕」に向けることに成功し、功山寺で決起、奇兵隊を用いて長州藩の保守派との闘いにおいて勝利しました。
 
 功山寺は、高杉らが酒宴を開いていた料亭のすぐ傍にあり、「それでは、いざ、決起いたそうか」といって、伊藤博文らと集ったところでした。

 その後、高杉は、防府に置いていった長州藩の船を奪還し、海からも長州藩の萩城を攻めようとし、その保守派の分散を図ったのでした。

 そして、高杉らは、長州藩の保守派との戦いに勝利し、その勢いで幕府の小倉城を攻め、陥落させたのでした。

 後に、伊藤博文は、高杉晋作のことを次のように評していました。

 その碑が、今でも、下関市長府の東行庵に残っています。

 「動けば雷電のごとく、発すれば風雨の如し。

 衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや」

 次回は、渡辺崋山の芸術性に分け入ることにしましょう(つづく)。

kazan20221204-8
      
一掃百態図(渡辺崋山、『原色日本の美術(小学館)』より引用)
 通りで何か生ものを売っているようで、大きな日笠で影を作っています。売っているのは魚でしょうか、それとも寿司のようなものでしょうか?商品がたくさん並んでいますので、みなさんがよく買ってくれるのでしょう。売り手の腰つきがおもしろいですね。