荒野を進む若者たち(藤井聡太の場合(3))

 第三は、藤井聡太五冠が、終盤戦において卓越した読みを発揮し、勝ち切ることができるのか、その鋭い洞察力の問題です。

 かれの得意な戦法は、角交換をした後に、王を中心にしてバランスを取りながら陣形をつくり、桂馬と銀を使って攻めていく方法です。

 これに対抗するには、相手方も同じ陣形にする場合が多く、そこから、実際に戦いが始まると比較的に早く勝負が進んでいきます。

 かれの持ち時間の使い方は、ほぼ同じで、序盤は、あまり時間を使わずに坦々と駒を進め、中盤に差し掛かってくると60分を超える長考を行います。

 この時点においては、相手の持ち時間よりも約1時間も少なくなっている場合が多いのですが、それが終盤になってくると、相手が困ってきて、逆に多くの時間を使うようになります。

 藤井五冠の方は、あたかも読み切っているように短時間において打ち進めていきますので、今度は、相手の方の持ち時間が無くなって秒読みに追い込まれ、慌てるようになります。

 今回の名人戦順位戦の最終決定戦での佐藤天彦九段との対戦において、そのような持ち時間の推移が典型的に現れていました。

 片や秒読みに追われる佐藤九段と、余裕綽々で追い詰めていく藤井五冠における姿は、非常に対照的でした。

 終盤における読みの差が、このような追い追われの現象を発生させたのではないでしょうか。

終盤力の強さ

 さて、私が最も興味深くおもうことは、なぜ、藤井五冠が、その最終盤において、深い読みと鋭い洞察力を発揮できるようになったのか、という問題です。

 周知のように、将棋は、相手と勝負する競技ですので、それに勝たなければ意味がありません。

 いくら序盤、中盤がよくても、最後に読み間違えれば負けてしまうので、「終盤力の強さ」が何よりも重要になります。


 この終盤力を、どう養成するのか、ここにプロ棋士やアマチュアの棋士のみなさんが、心血を注いで励まれているのではないでしょうか。

 これには、まず、盤面を観て考える「集中力を鍛える」ことが求められます。

 雑念を払いのけて、一心に考えていく集中力が、次の一手の読みを深め,進めさせていくのだとおもいます。

 しかし、その集中力だけでは、その読みを急速に展開させて、さらに、より深く、より先に達していくことには限界があるのではないでしょうか?

 ここに、ある特別の思考回路が形成されているのではないか、なぜか、そのように推察してしまいます。

 たとえば、ある程度将棋を究めていくと、盤面なしで頭の中だけで将棋を指すことができるようになるようで、そのような将棋指しのシーンを見たことがあります。

 また、ある著名な政治家は、監獄のなかで、看守と将棋をしていたそうで、ご本人は頭の中で将棋盤を想像し、その看守は、牢の外で将棋盤を並べて将棋を指していました。

 おそらく、藤井五冠が将棋盤を目の前にして先を読む際には、その頭の中で、次の一手、十手、百手が画像として次々に浮かび上がってきては消えるというパターンを繰り返しているのではないでしょうか。

 最近のネット番組における中継においては、AIの読み数も示されていますが、その読み手の数が、100億手、あるいは200億手も読みこなしたという表示があります。

 しかし、藤井五冠は、その予想を超える手を何度も指しますので、そのような数手では表せない、すなわちディジタルではない、あるいは、多次元の盤面読みの画像構成がなされているのではないでしょうか?

 一度、藤井五冠の頭のなかを覗いてみたいとおもいますが、それは不可能ですので、推察に留めておくしかありませんね。

 
この終盤における読みの深さを鍛える行為は、「洗練の行為」といってもよいのではないでしょうか。

千鍛万錬

 宮本武蔵が用いた言葉に、「千鍛万錬」があります。

 私の好きな言葉でもあります。

 おそらく、藤井五冠は、幼き頃から、ひたむきに将棋盤に向かって、その将棋力を懸命に鍛え、万に練習してきたのだとおもいます。

 将棋を行うことが大好きで、そのことが、千鍛万錬に接近していったのではないでしょうか。

 その蛍雪が、それを磨き上げて、若くして誰も到達できない優れた洗練の域に突入していったのだとおもいます。

 おそらく、その洗練の次元が、ただ数字を重ねるだけしかできないAIとは本質的に異なる「重要な何か」を創造しているようにおもわれます。

 その洗練は、どのようにして実現されていくのでしょうか?

 次回は、その極地に分け入っていくことにしましょう(つづく)。

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ラベンダー(前庭)