老いの壁

 森村誠一『老いの意味』から『老いの正体』に移りましょう。

 このなかでは、「老いの壁」が述べられています。

 かつては、60歳で定年を迎えて、後は余生を過ごすことが当たり前でした。

 ところが、今では、その定年から20年、30年を生きていくことになり、ある意味で、その後編こそが、人生の本番となってきた、このように、かれはいっています。

 その定年後の生き方は、自分で決める自由を有しています。

 進学から就職して定年を迎えるまでは、何らかの制約を受けながらの人生でしたが、その呪縛から完全に解き放たれるのが、この定年後であり、そこから本番としての生き方が始まるのだというのです。

 この本番とは、「存分に楽しむ」、「充実した日々にする」ことを意味しているのだそうです

 この人生を、かれは「誉生」と表現されています。

 定年後に何をするのか、については、次の4つが指摘されています。

 ①現役時代に趣味としてしていたことを仕事にする。

 ②新たな技術や資格を取得しておき、それを生かせる仕事を始める。

 ③それまで副業としていたことを仕事にする。

 ④自分で仕事を始めるわけではなくても、まったく違った分野で再挑戦する。

 ①においては、仕事にできるほどに優れた趣味を持っているのか、が重要な問題になります。

 ②は、このなかで最も可能性があるケースです。

 しかし、その技術において新規性、進歩性があるのかどうかが問われることになります。

 ビジネスにすることができる方法としては、たとえば、特許を所得していることですが、その取得がかなり難しいこと、そして、その特許を活かした商品づくりと販売が、さらに難しく、小さくない壁が立ちはだることになります。

 ③においては、そもそも副業を認める企業がほとんどなく、それが諸外国とは大きく異なっています。

 また、会社内において、さまざまなアイデアを基にしたベンチャー企業の創成が奨励されている諸外国と比較して、日本企業の社員には、ほとんどその指向がないようにされています。

 ④においては、勇気が要る挑戦です。これを即行していくことには清々しさを覚えます。

 いずれも、いくつもの困難と勇気を必要とされますが、それゆえに、それらを乗り越えて荒野をめざすことに小さくない意味があり、そこに歩を進めていく大志が重要なのではないでしょうか。

 「後編における五カ条」

 人生の本番を前にして、その壁を打ち砕くための大志が望まれています。

 森村さんは、その後編に臨む五カ条が示されています。

 ⑴ 健康であること

 人生100年時代を迎えて、その年中組(70歳代)においては健康に寄り添って生きていくことの大切さを日々感じています。

 私の場合、63歳の時に大病を患い、68日間の入院生活を過ごしたこともあり、それによって健康のありがたさを思い知らされました。

 いわば、その大病によって生まれ変わり、健康的に生きていくことのライフスタイルを遅ればせながら学んだのでした。

 その一つに、夜の8時以降は、ヨーグルト以外に何も食べない習慣が身に付いています。

 これも、その入院生活で学んだことですが、その後の体調維持に重要な役割を担っているのではないかとおもいます。

 先日、家内が沖縄に里帰りをした際、夕食の時に、次のことが話題になりました。

 「私たちの家では、夜の8時以降は、食後にヨーグルトを少し食べる以外は何も食べません」

 こういうと、周囲のみなさんが「えっ!」といって絶句されたそうです。

 その沖縄では、夕食の食事時間が遅く、しかも夕食の後、夜の10時になっても、甘いもの果物を平気で食べる、ビールを飲むことがよくあるそうです。

 これでは、歳をとってからの健康が保てるわけがありません。

 沖縄に行くと、やたら多く医院や病院の看板が目立ちます。

 そのことは、このような食生活と、もしかしたら関係しているのかもしれませんね。

 年中組において、人生の闘いを行なうのであれば、自らが健康であることが、その最初の闘いではないか、こうおもう、この頃です。

 ⑵ 多少の経済力は持っておく

 森村さんらしい指摘です。

 先日も、ある友人の方から長い手紙をいただきましたが、そのなかでお金が無くなって困っているという話がありました。

 定年後の人生が、20年、30年と長くなっていくと、まず、それまでに蓄えていた金の目減りが心配になります。

 とくに、都会に住んでいるご老人にとっては、この問題は年々深刻になってきています。

 なぜなら、都会ほど、お金が無くては生きていけないところだからです。

 そのことを理解するうえで、最も良い事例は、コンビニです。

 今は、そこに行く必要がなく、年に1、2回程度しか入りませんが、しかも、それも、もの珍しさに惹かれてのことで、無糖のチョコレート以外は、ほとんど商品を買うことはありません。

 以前の職場のころは、帰り際に、よくコンビニに立ち寄っていました。

 子供たちや学生たちに何か買っていってやろうとおもって、それらを籠に入れると、すぐに2000円、3000円になっていました。

 その時は、あまり気にしていませんでしたが、じつは、それらがより高価で、コンビニの会社が儲かるように仕組まれていることを、そこに行かなくなってから気付いたのでした。

 このように、都会では、食べるものも高く、今では、その生活が難しくなっていて、持ち金が少なくなることを心配している方々が大勢いるのではないでしょうか。

 同じ年金自給者であっても、国東で生活していると、だいぶ事情が異なります。

 前者の都会においては、年金を使い果たし、持ち金を削ることが当たり前になっているのに対し、ここでは、その年金が余って、逆に持ち金を増やすことができているのです。

 国東に住む友人のMさんが、こういっていました。

 「ぜいたくをしなければ、国東では、年間100万円で生活することができます」

 たとえば、年金で250万円を支給されている方であれば、差し引き150万円を貯蓄にまわすことができます。

 何と夢のような話ではないか?

と疑われそうですが、それがまぎれもない現実であり、私の場合においても、年金で十分に生活できて、預金もできています。

 それゆえ、孫たちにも毎年、かれらが大喜びするような「お年玉」を贈ることが可能になっています。

 ふしぎなことに、さまざまに格差されてきた国東で、このような凄まじい格差が生まれているのです。

 そのうち、この格差が拡大し、食糧やエネルギーの格差がさらにひどくなってくると、一挙に国東のような田舎への民族移動が起こるのかもしれませんね。

 森村さんがいう「多少の経済力」というのは、都会の人々を念頭に置いているようで、国東のような田舎では、「わずかな経済力」であっても生活できる、ここがおもしろいところです。

 それにしても、政府と財務省の考えていることは、あくどく、年金を減らし、消費税増税を企んでいるようであり、決して許すことはできませんね。

 以下については、次回に分け入ることにしましょう。

 ⑶ 生きがいを持つ、生産性のあることをする

 ⑷ 仲間がいること

 ⑸ 身だしなみを忘れない

 (つづく)。

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小菊(前庭)