崋山と長英(5)

 さらに、渡辺崋山と高野長英の会話が弾みました。

 「安政の大獄で、長州の吉田松陰が亡くなりました。

 真に惜しまれる若者でした。

   権力には、決して怯まず、堂々と身体を張って立ち向かい、弟子たちには優しい師でした。

 長州は、毛利元就以来の気骨を宿しているようで、決して東に頭を向けて寝ないそうですね。 

 長英さんは、長州の人と知り合いだったそうですが、どうでしたか、その印象は?

長州の若者気質

 「鳴滝塾の先輩にも、長州の方がいてお世話をしていただいたことがあります。

 その方も、そうでしたが、若い方には、あまり過去の古い考え方に拘らない、自由に物事を考える雰囲気がありましたね。

 それは、どこの藩にもいるがりがりの保守に対して、それを改革しようとして若手を登用しようとする改革派がいて、それを毛利公が許していたのだと思います。

 その改革派の中心人物が周布政之助です。 

 吉田とその弟子の高杉も、ずいぶんとかれに助けられています。

 それから、長州藩が自立性に富んでいたのは、下関を中心にした貿易で財政に余裕があり、他藩よりは裕福になっていたことがあります。

 これが大きいですね。

 外様とはいえども、自立心が旺盛で若者の活躍を期待する、このような気質に富んでいたのではないでしょうか」

 「なるほど、おもしろい観方ですね。

 逃亡とはいえ、いくつもの藩を通り抜けただけはありますね
!」

 「崋山さん、変な誉め方をしないでください。

 ところで、私が注目しているのは、松陰門下の高杉晋作です。

 かれは、機を観るに敏、動くこと疾風のごとくといわれるようになりますが、要するに直観力に優れた男です」

 「それは、あなたも同じではありませんか。

 その直観力を発揮して、ここは危ないとおもって逃げてきたのではないですか?」

 「私のように逃げまくっていると、ふしぎなことに、このままだと危ない、逃げようという直感が研ぎ澄まされてくるようです。

 しかし、それは大した話ではなく、高杉という一介の若者が、あそこまで長州藩を動かすようになったかが重要であり、それには、かれの優れた直観力が大きく関係していたのではないかと思います」 

 「それは、おもしろそうな話ですね。どんな直観だったのですか?

 具体的に教えてください」

 
「それは、ここぞいう時には攻める、しかし、やばいと思ったときには、即逃げるという判断ができることです」

 「なるほど・・・

賢い戦略家

 「それから、かれは、賢い戦略家だったことです。

  この点は、松陰に劣らなかったのではないでしょうか」

 「そうですか、それはおもしろそうですね

 「松陰が逝ってしまってからは、松下村塾の弟子たちは、松陰の意思を継ごうとしましたが、実際の行動はバラバラになっていきました。

 双璧といわれた久坂玄瑞は攘夷を旗頭にして京に攻め上りましたが、高杉は、それには加わりませんでした」


 「なぜ、高杉は加わらなかったのですか?血気盛んな高杉が参加しなかったのはふしぎですね。それも、かれの直観と関係しているのですか?

 「さすが、崋山さん、あなたも鋭いですね。

 じつは、その通りで、そのことが歴史的なターニングポイントだったのではないかとおもっています」

 「それは、どういうことですか?

 「おそらく、かれは、玄瑞らの攘夷論とは異なる、別の考えに至っていたのだとおもいます」

 「ますます解らなくなりました。

 それは、どういうことなのでしょうか?

 「そうでしょう。

 これには、かれの上海行きが関係しています。

 ここで、かれの直観力が働いたようです

 こうして、かれらの長州談義は、互いが興奮するほどに進んでいきました。

 次回は、高杉晋作が歴史的見聞を得た上海旅行に分け入ることにしましょう(つづく)。

kazann20221204-5
      
一掃百態図(渡辺崋山、『原色日本の美術(小学館)』より引用)
 侍たちの行列が、リアルに描かれている。担ぎ手はみな裾をまくって駕篭を担いでいて、その後ろには馬や裃を着た侍もいる。江戸の混雑ぶりが窺える。