崋山と長英(4)

 渡辺崋山と高野長英の会話が続きます。

 「水野忠邦が失脚した後に、阿部正弘が老中首座となり、島津斉彬の助力もあって、幕府財政を立て直し、1853年のペリー来航依頼、開国への決意と準備がかなり進みました。

 しかし、惜しいことに、38歳という若さで亡くなってしまいました」

 「真に、才能に溢れた頭の明るい方であり、崋山さんの海防論をよく勉強し、研究されていました」

 「そうですね。諸外国の事情をよく理解していた島津斉彬公との協力がよかったのではないでしょうか」

 「かれは、若き西郷隆盛を抜擢し、直属の部下として活躍させました」

 「しかし、もっと生きて活躍してほしいというほど早く逝ってしまうようですね」

 「そうだよ、阿部正弘の後に大老になった井伊直弼は、阿部の開国決断を尊重して条約締結を進めたものの、今度は反対に、国内の批判者を徹底して弾圧し始めた。これが安政の大獄といわれている」

吉田松陰

 「安政の大獄、あれは、私どもが受けた蛮社の獄よりも大規模で、ひどいものでしたね」

 「私が許せないとおもったのは、あの長州の元気のよい吉田松陰を罰し、死刑にしたことです。

 かれは、長州に連れ戻され、自宅蟄居の時は家族に、そして野山獄においては、感心にも囚人たちに講義をしていたそうです」

 「それだったら長英さん、あなたと同じではないですか!ペリーの黒船に乗り込もうとしていたことは、あなたが江戸からシーボルト先生の鳴滝塾に弟子入りしたいと長崎に赴いたこととよく似ていますよ」

 「そういわれれば、そうかもしれませんね。獄中においても望みを捨てなかった。どんな困難に会っても、学問をすることを忘れずに、前向きに、しかも周囲の民を誘って励む心には、なにか気脈を通じるものがあるようですね」

 「気脈どころか、丸っきりよく似ていますよ。かれが生きていたら、長英さんの弟子になりたいといってきたはずです」

 「かれとは26歳違い、よいドクトルになっていたかもしれませんね。真に惜しい若者を逝かせてしまいました」

村田蔵六

 「同じ世代では、長州の村田蔵六さんもいますね。かれは大阪の適塾から宇和島藩の伊達公に招聘されました。長英さんの後釜だったようですが、その辺の事情はどうだったんでしょうか?」

 「あれは、鳴滝塾の先輩であった二宮敬作が引っ張ってきたのです。

 私が、宇和島を離れる前に、かれから相談を受けました。

 かれは、大阪の緒方洪庵が開いた適塾で学び、蘭学の素養を身につけていました。

 軍事技術にも関心を持っていたことから、二宮は、伊達公に、私の後釜として、ぴったりだと推薦したようです」

 「そのかれが、長英さんの宇和島での仕事の数々を目の当たりにして吃驚した。

 きっと宝物だとおもって必死に勉強したようですね」

 「私の酒仲間の二宮は、人を選ぶ、結びつけることに関しては、私以上に優れた才能があったようで、まずは、私を呼び、その後に村田蔵六を迎えるようにしたことが、次の歴史の扉を開ける引き金となりました」

 「伊達公が密かに集めていた西洋における大量の軍事技術の文献を和訳され、まとめられたそうですね」

 「たしかに、たくさんありました、なかには英語の文献もあり、英語の修得にも役立ちました」

おイネ

 「そういえば村田さんだけでなく、シーボルトの娘さんも宇和島に招かれたそうですね」

 「はい、宇和島では、私も度々『おイネ』さんに会うことができました。

彼女は、シーボルト先生の直弟子でしたので医者としてもしっかりしていて、すばらしい活躍をなさっていました」

 「村田さんとも交流があったそうですね」

 「ありましたね。おイネさんを通じて、シーボルト先生の偉大さを学んでいました。

 それだけでなく、後に村田さんが重篤になった時に、おイネさんが治療を行い、かれの命を救ったと聞いています。

 おイネさんは、村田さんの命の恩人だったのです」

 「それは、真によい話ですね。おイネさんだけでなく、長英さん、あなたも村田さんによいプレゼントをなされましたね!」

 「おイネさんと比べると、私の分は大したことないですよ!」

 「おやっ、あなたにしては珍しいほどのご謙遜ぶりですね?」

二宮敬作の作戦

 「いやっ!二宮は、酒好きの只の親父だけど、『人使い』だけは格別に優れていて、私は、かれの作戦にまんまと乗せられました。

 もっとも、私は逃亡の身だったことから、宇和島の伊達公が密かに匿ってくれたことは、渡りに船でありがたいことでした。

 その意味でも、二宮は、酒の飲んだくれだけでなく、いいやつでした。

 私も、かれ以上に飲んだくれだったので、真に楽しかった8カ月でした」

 「酒の話ではないですよ。ごまかさないでください。

 あなたの宇和島での西洋における軍事技術の研究の話ですよ。

 あなたの仕事の成果を伊達宗城公は、非常に喜ばれたそうですね」

 「それは大変な喜びようだったと、二宮がいっていました。せっせとたくさんの金を支払って集めた文献が山積みされたままでしたので、それらを生き返らせたことがよかったようでした。

 それに、宗城公は西洋の軍事技術に小さくない関心を持たれていたようで、私の報告書を読んで、すぐに砲台設置の計画書を作成せよと命じてきました。

 やはり、並みの殿様ではありませんでしたね。

 それから、私が感心したのは、かれが集めていたのは軍事技術に関する文献だけでなく、西洋の生活や文化、さらには哲学に関するものもたくさんありました。

 この山のように積まれた文献を見て、私が、最初に行ったのは、その文献リストを作成したことでした。

 このリストを作成して私の頭のなかを整理しないと次に進めない、このようにおもうほどに、それは大量の文献でした」

 「その時は、さぞかし、うれしかったのではないですか?」

 「その通り、毎日リストを作りながら、ワクワク、ドキドキしていましたよ!」

 「医学から軍事、そして生活から食料、さらには文化から哲学へ、あなたの学問的裾野が一挙に広がっていったことに、あなたは大変な充実感を覚えていたのではないですか?

 二宮さんとの飲んだくれ酒談義は、ほんのおつまみ程度だったのでは?」

 「酒はおまけ、私の研究の成果を話すと、二宮も喜び、『ますます酒が旨くなる』といっていました」

 「私も、あなたのおかげで、田原藩の海防計画書をまとめることができました。

 この時、あなたは、まだ小伝馬町の牢屋のなかでしたが、おそらくあなたが手配されたのでしょう。

 村田さんから、極秘だったあなたの海防計画書の内容を示唆したヒントをいただき、『これだ!』とおもいました」

 「そうだったの?それはあなたの『夢物語』では・・・」

 「何をいっているのですか、私の海防計画書を、あの阿部正弘老中首座が目に留めて、私に会いに来られました。

 そして、田原藩の海防の実際を視察され、大いに感心されていました。これらは、長英さん、あなたのおかげですよ!」

 「そうでしたか、それはよかったあですね!」

 「はい、それでもまだ、あなたは惚(とぼ)けておられるのですか!酒を飲ませないと本音が出てこないのですかね?」

 「そうかもしれません」

 「あなたのおかげで、私の海防計画書が、田原藩によって見直され、私の身分を戻していただくことができました。

 一時は、身を処そうとおもっていましたので、長英さん、あなたは、私と田原藩の命の恩人なのです!」

 こうして、二人の話は、延々と続いていきました。

 次回も、この会話を示していきましょう(つづく)。

kazann20221125-2
  野鹿像(1815年23歳の時の作品、『渡辺崋山』新潮日本の美術文庫より引用)

 後の崋山の人物像の描写とよく似ていて、鋭い観察眼の下で描かれています。

 この年の3年前には、ナポレオンがロシアからの撤退を始めていました。

 また、それを主題にした大序曲「1812年」が、後にチャイコフスキーによって作曲されています。

 この曲を、沖縄の「1812年」という名のクラシック音楽喫茶店で、初めて聞いて感動したことがありました。

 私にとっても「思い出」深い曲でした。

 崋山も長英も、ナポレオンの時代に生きていた東洋の巨星でした。