5000回記念

 とうとう5000回という記念の日を迎えることになりました。

 この開始は、2008年の5月でしたので、足掛け14年を経て、この高嶺に到達することができました。

 長くもあり、短くもあった14年でした。

 本ブログ執筆のきっかけは、当時の木更津高専の五十嵐譲介教授から、電車のなかで執筆を勧められたからでした。

 その時に、かれが強調されたことは、

 「ブログは、毎日書いて更新することが重要である。そうでないと、多くのみなさんに読んでもらえない」

というものでした。

 これを真に受けてしまって、その通りに、せっせと毎日、その執筆に努めてきました。

 当初は、記事を更新することができなくて苦にしたこともありましたが、時の流れは、それを普通にし、書くことに喜びさえも与えてくれました。

 「塵も積もれば山となる」の諺のように、この途方もなく高い嶺に到達できたことには、一入の感慨を隠すことができません。

 残念なことは、私が大病を患って68日間の入院生活を過ごしてしまったことから、2013年2月から8月まで、本ブログの更新ができなくなって、中断を余儀なくされたことでした。

 なんとか、この空白区間を埋めていきたいとおもっていますが、未だ、その課題は達成できていません。

 この記念すべき5000回を迎えるにあたって、その日数が一桁台になってからは、

 「どう、それを迎えようか? 記念シリーズとしてのテーマを何にしたらよいのか? はたして、その5000回という記念にふさわしいテーマと内容を有する記事を企画できるのか?」

などと、いろいろな「おもい」を巡らしてきました。

 その結果、思考の終着として浮かんできたのが、長年光マイクロバブル(LEMB)と寄り添ってきた人生を、そのまま素直に語るのがよいのではないか、とおもうようになりました。

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今年の夏は、百日紅の花が数年ぶりに咲きました(前庭)

 次は、その意を踏まえて、タイトルをどうするのか、その思案に分け入りました。

 そして思い浮かんできたのが、『素晴らしき哉、人生』というジェームス・スチュアート主演の映画でした。

 これは、あの有名な劇作家の倉本聰が一番好きな映画です。

 不幸にも、部下の手違いで大金を失ってしまい、その主人公は、会社も家庭も養っていけないとおもい詰め、自殺しようとおもって森に入ると、そこには先約の天使の自殺希望者がいたことから、自分のことはそっちのけで、かれを助けてしまいます。

 ここから、そのかれと主人公のおもしろい人助けの行為がなされるようになり、クリスマスの日には、周囲のみなさんがお金を出し合ってくださったことで、主人公が救われるという素敵な話で終わります。

 ここには、金では解決できない、尊い人々の信頼と慈しみがあることを示し、それがアメリカという国の素晴らしさなのだという、真に素敵な主題が示されていました。

 しかし、今のアメリカはどうでしょうか?

 毎日のように、どこかで銃による殺人・障害事件が起こっています。

 また、ウクライナ戦争によって、武器製造会社が莫大な利益を貪っています。

 さらには、不正な選挙がまかり通り、貧富の格差がますます拡大し、弱者がインフレーションで苦しみ、不法難民が大量に押し寄せるなどの問題が山積しています。
 
 そして自国では物を造らず、欲しいものは輸入すればよい、儲けるためには、金を使えばよい、その金儲けを基調にした弱肉強食の新自由主義が、厚かましくも大手を振ってきたのでした。

 それが、不景気と新型コロナウイルスによって行き詰まり、不景気のなかで深刻なインフレーションが起きてしまいました。

 ゼロ金利政策によって、お金が世界中で溢れかえり、借金がなされた債権をも売買に使用して金儲けをするということが、当たり前の世の中になりました。

 この世の中の勝者は、溢れんばかりの金を持ち、異常なビバレッジ(梃子)による高利をかけて稼ぎまくることを生きがいとしてきた輩たちです。

 しかし、それも、そろそろお終いを迎えたようで、それがカサンドラクロス状態になっていくのではないかと予想する人々まで出始めました。

 この5000回を迎えた今日は、新型コロナウイルスを手始めとした感染症の時代の始まりであり、「今だけ、金だけ、自分だけ」に象徴される新自由主義の終焉を迎えて、弱者や老人、子供たちなど、貧しい人々と金持ちの格差が、ますます広がっていく困窮の時代です。

 さらには、異常気象による大火事、干ばつ、大洪水が頻発し、そう遅くない時期に食糧危機を迎える可能性が高まっていて、その現実化がひたひたと進行しています。

 映画『素晴らしき哉、人生』の時代とは、桁違いに大規模で、急速な困窮と困難、そして苦渋が満ち溢れている今日ですが、私たちが、隣人と共に生きていくということは、これらの小さくない課題を背中に背負っていくということでもあります。

 どんなに小さくてもよいから、どんなにわずかでも構わないから、よく考えて知恵を産み出し、鮮やかな工夫を発揮していくことで、これらの困窮と困難を吹き飛ばしていくことが、私たちに求められているのではないでしょうか。

 「素晴らしき哉」

 そこで、私は、この記念すべき5000回を契機にして、その「素晴らしき哉、LEMB人生」を改めて考え直してみよう、その浅くない意味を探ってみようとおもいました。

 おりから、私も、後1年で後期高齢者の仲間入りをしますので、別稿において「老いの覚悟と生き方」を、人生の先輩である森村誠一さんの著作を通じて考究してみようとおもってきました。

 その「老いの意味」を考えながらの「素晴らしき哉、LEMB人生」の意味と正体を探究していきたいとおもっています。

 さて、その第一の「素晴らしき哉」は、私のLEMB人生における「ゆかいな自由の王国」の問題です。

 次回は、その王国に、密かに分け入ることにしましょう(つづく)。

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ローズマリー(前庭)