崋山と長英(1)

 二人が生まれてから亡くなるまでを比較してみましょう。

 崋山:1793~1841年(48歳)、以下括弧内は亡くなった時の年齢である。

 長英:1804~1850年(46歳)

 崋山は、長英よりも7つ年上でした。

 二人は、西洋の広範囲の分野における学問や国内外情勢を語り、研究し合う「尚歯会」において知り合い、意気投合し、真に親しい仲になっていきました。

 しかし、この二人を危険な思想犯ではないかと、執拗に監視していたのが、時の老中首座の水野忠邦と、その命を受けた鳥居耀蔵でした。

 折しも、天保の大飢饉が発生し(1835~1839年)、このなかで1837年には、大阪で「大塩平八郎の乱」*も発生し、不安定な世の中になっていました。

 *渡辺崋山が描いた国宝「鷹見泉石像」の鷹見は、大塩平八郎の乱を取り締まり、鎮めた大阪の役人であり、その人物像を崋山が描き、国宝と見なされる評価を得ていることが注目されます。

 崋山は、この大塩平八郎と何か繋がっていたのではないかと疑われ、さらには、小笠原諸島の無人島上陸計画という「でっち上げ」によって逮捕され、「蛮社の獄」というが事件が発生しました。

 尚歯会においては、崋山と共に長英も探索されたことから、かれは後に自首したにもかかわらず、永牢の身となりました。

 そして、同じメンバーであった蘭学者の小関三英も自殺してしまいました。

 この蛮社の獄の勃発によって、崋山と長英の人生は大きく変貌していきました。

 崋山の方は、大塩平八郎の乱および小笠原無人島上陸計画とは全く関係していなかったものの、自宅にあった未完成の「慎機論」の草稿が見つかり、今度はモリソン号事件に関しての「不穏分子」であったという理由で捕らわれ、牢に入れられました。

 一方、長英は『夢物語』を著し、それが、世の中で大変な評判となっていきました。

 夢のなかとはいえ、モリソン号事件における幕府の無能な対応を批判したとされ、危険な思想犯として逮捕されたのでした。

 これらの捕縛を指示した老中首座の水野忠邦は、1841~1843年にわたって、いわゆる「天保の改革」を強行しますが、これに失敗し、世の中は、経済的にますます混乱していくことになりました。

 そして最後には、忠実な配下であった鳥居耀蔵によって裏切られ、失脚していきました。

 それから10年後に、ペリー率いる黒船が突如来航し、江戸幕府は、その開港要求をめぐっててんやわんやの混乱を深めました。

 この時代に、次の志士たちが歴史の最前線に登場してきました。

 吉田松陰:1830~1859年(28歳)

 坂本龍馬:1836~1867年(30歳)

 高杉晋作:1839~1867年(27歳)

 大村益次郎:1825~1869年(43歳)

 西郷隆盛:1828~1877年(48歳)

 勝 海舟:1823~1899年(75歳)

 これらの人物たちが、倒幕運動の先頭に立ち、二度の長州征伐(1864年、1866年)、薩長同盟締結(1866年)、大政奉還(1867年)、明治政府の樹立(1868年)へと導いていきました。

 勝を除けば、みな若くして逝ってしまったことに共通性があり、真に惜しまれますね。

 さて、ここからは、架空の話であり、次の仮説を設けることにしましょう。

 その仮説とは、「崋山と長英が、それぞれ20年長生きすることができた」と考えることであり、その場合には、この二人は、どうなっていったのであろうか、を推論することです。 
 
 これによって、崋山は68歳、長英は66歳まで生きたことになりますので、二人とも、ほぼ人生を全うしたという思いを抱き始めていたのではないでしょうか。

 この「その後の20年」は、二人とも、高齢者としてよく生き抜いた年月であり、かれらを制約していた徳川幕府からは、その時の経過とともに自らを自然に解放していく、という自由な日々が待ち構えていたのでした。

 まず、田原藩の家老として海防を任務としていた崋山は、小伝馬町の牢獄から出獄した後も自宅で蟄居を命じられていました。

 そのため俸禄ももらえず、密かに絵を売って生計を維持していました。

 しかし、それをよからぬとおもった連中が、蟄居の身でありながら絵を売って金を稼いでいるという噂が流されていました。

 勤勉実直な崋山にとっては、とても耐えることができないことであり、どうしたものかと悲嘆していました。

 その折に、牢名主となっていた長英から、密かに海防に関する機密文書が届けられました。

 一度は、自刃までしようかと思いつめていた崋山でしたが、それを読んで「一隅の灯」を得たのです。

 その送り主は、宇和島藩の村田蔵六(後の大村益次郎)であり、かれは、長英が和訳して、宇和島藩における海防策として深浦地区に砲台を設置する計画を立案したものにしたがって、実際に砲台を設置した責任者だったのでした。

 村田は、長英から密かに依頼されたと記した送り状のなかで、長英が行った優れた軍事技術の翻訳と、それを実際に適用した計画書が、いかに素晴らしくて時代の先端を行くものであったか、そして、それを示した長英の偉大な業績について、小さくない評価を記していました。

 これらを読み、崋山は、涙を流して喜び、胸を打たれました。

 そして長英と村田の親切、友情に心から感謝したのでした。

ーーー そうだ、自由に生きていけばよいのだ!狭小な噂なんぞに負けてなるものか! 

 崋山は、その宇和島藩の海防計画書を踏まえながら、独自の田原藩における海防書を考究し、さまざまに練り上げていきました。

 当代随一の軍事技術を究めていた長英が認めていた海防書を基礎にして、それをさらに発展させたのですから、それに勝るものは、日本中探しても見出せるものではありませんでした。

 その後、崋山は、蟄居中という自分の境遇を考慮して、慎重に小出しをしながら、その海防書の内容を田原藩に提出していきました。

 驚いたのは、その担当者と藩主の慶直公であり、それが実際の砲台づくり、海防作戦づくりへと徐々に発展していったのでした。

 その結果、崋山は、田原藩にとって無くてはならない貴重な家来であるという再評価を得たのでした。

 そして、それが決定的に明らになったのが、1853年の浦賀絵へのペリー来航でした。

 すでに、この時、崋山は家老職を辞して隠居の身でしたが、田原藩における崋山が著した「海防書」に基づく実践的な備えが、老中首座の阿部正弘から注目され、小さくない評価を得たのでした。

 「崋山さん、すごいじゃないですか!やりましたね。よい仕事をしましたね」

 「いやぁ、長英さんのおかげですよ!」

 「ところで、長州藩の元気のよい若者が、ペリー船に漕いで行って、アメリカに連れて行ってほしいと、お願いをしたそうですね」

 「そうですよ。たしか、吉田松陰という名の若者だったそうですよ!」

 「血気盛ん、若者は、これぐらいでちょうどよい!」

 「しかも、驚いたことに、ペリーから乗船を断られた後に、自ら役所に名乗り出たそうですよ。なんと潔いことか!」

 「一度会ってみたいとおもいますが、囚人となったからには、それも無理かもしれませんね。井伊が、好き勝手に捕えては牢屋にぶち込んでいますからね!」

 「あれから(安政の大獄)から、幕府の政治はますます混乱し、今度のペリー来航によって、相当に、あたふたしていますね!」

 「振り返れば、先の老中水野忠邦の『天保の改革』の失敗が大きかったですね。あの無茶苦茶な倹約令と貨幣鋳造による価値の低下は、ますます人々の生活を混乱させ、苦しめました」

 「そうですね。かれは、社会や経済のことを何もわかっていませんでしたね!」

 「最後は、最も信頼していた腹心の部下であった鳥居耀蔵の裏切りで内部告発されて失脚しました。その後を継いだ、阿部正弘も苦労されていますね。かれから、何か問い合わせがあったそうですね」

 「そうですよ、吃驚しました。ペリーが浦賀にやってきて、阿部さんも日本の海防をしっかり考えなくてはならないと、薩摩の斉彬公と真剣に検討されているようです。

 その際、私が田原藩に提出した海防計画書とその実践が非常に参考になったそうで、もっとその内容を詳しく知りたいといってこられました。

 もっとも、その基本は、あなたの宇和島藩でのお仕事でしたので、あなたが阿部さんを動かしたといってもよいのでは?」

 「いや、いや、崋山さん、あなたのお仕事が立派だったからですよ!」

 長英は、うれしそうに報告する崋山の表情を見て、密かに安堵していました。

 次回は、その後、絵画美術に打ち込んで、すばらしい絵画を世に出してきた崋山の芸術の世界に分け入ってみることにしましょう(つづく)。

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鷹見泉石像(渡辺崋山の最高傑作のひとつ、国宝、「原色日本の美術」より引用)