K先生の思い出

 コンニャクは、血糖値を上げない自然食品としてよく知られています。

 地元のスーパーに出かけた時に、おいしそうな手作りコンニャクはないかと物色することが少なくありません。

 そんなコンニャクに日頃から慣れ親しんでいる私ですが、いくつかの思い出があります。

 その第一が、山形月山の「こんにゃくだま」です。

 鶴岡高専のK先生のお招きで、鶴岡を訪れたことがありました。

 このK先生を始めとして地元の有志の方々が私の後援会を開催してくださったからでした。

 この時が初めての鶴岡入りでした。

 じつは、それまでにも、この高専のことはよく目にしていました。

 それは広報誌として拝読していたからでした。

 前職場のT高専において広報関係の仕事に携わっていた時に、その高専が出す広報誌の全国的なコンクールが開始されたことから、全国の高専における広報誌を見聞しておく必要があるとおもったからでした。

 とくに、表彰を受けた高専の広報誌を研究してみよう、とおもいました。

 そのなかで、「ここはおもしろい広報誌を作っている、編集も丁寧だ!」と注目していたひとつが、その鶴岡高専でした。

 ところが、この鶴岡高専でも、同じように入賞した高専の広報誌の研究がなされていたそうで、そのことを初めて鶴岡高専のK先生訪問で知ったのでした。

 「そうですか、鶴岡高専においても、私どもの広報誌を研究されていたのですか? じつは、私もそうで、貴校の広報誌はよくできていると感心していました。

 とくに、誤字、嘘字が一つもないことが印象に残っていました」

 こういうとK先生は、思い当たることがあったようで、

 「何度も推敲させられました」

と仰られていました。

 しかし、ここまでは外交辞令的なやり取りであり、K先生には、それ以上の「想い」があったのでした。

 それは、

 「私どもの広報誌を乗り越え、最高賞を得よ!」

と促されていたからのようでした。

 そんなことも知らずに、この広報誌歓談をしていたのですが、その途中からK先生の表情が変わってきました。

 その乗り越えなければならない相手が、目の前にいたからでした。

 それは、「にっくき敵の正体が顕わになった」とでも言いたげな様相でしたので、私も少々驚きました。

 当時、私どもの広報誌は、そのコンクールで何度も最高賞に輝きましたが、その担当の中心人物の一人が私だったのです。

 当時、私は、T高専の職場を改善するための将来計画委員会の委員でしたので、そこで広報委員会の設置を提案したところ、当時のF校長が、それをすぐに採用してくださって、その活動が始まっていたところに、このコンクールも開催されたのでした。

 頑張って、数十ページの広報誌を年4回も発刊していましたので、それこそ、その編集で駆けずり回っていました。

 この広報誌は、全学生と全教職員に配布され、それが学生によって保護者にも届けられますので、優れた広報活動は、学校と学生、保護者の関係を大いに改善していく力を有していました。

 しかし、なかには、経験主義の豊かな幹部もいて、その公明正大な広報を好まない方もおられました。

 私は、そのこともよく理解していましたので、F校長と彼ら指導部を含む座談会を頻繁に企画しました。

 かれらの発言は、広く公になって流布されますので、それをいった以上実践していかねばなりません。

 これを私以上に喜んだのが、F校長、そして、その次のO校長でした。

 おもしろいことに、かれらとは、そこに共通項があったようで、人知れずの友情がほのかに芽生えていったようでした。

 「そうでしたか。先生でしたか!」

 敵だとおもっていた輩の正体が、目の前に現れたのですから、K先生もさぞかし複雑な思いをされたことでしょう。

 これが反対の立場であったとしたらよく解りますが、私が、その敵に出会ったとしても、同じ思いを抱いていたことでしょう。

 それから、しばらく、K先生との広報誌談議で盛り上がりました。

 結局、次の点において違いがあったことも明らかになりました。

 ①座談会など、学校改善のための大胆な企画を採用できるかどうか。

 ②それまでの事務官任せの編集を変更し、教員が責任をもって編集を行うようにした(この点は鶴岡高専の方が先行済みであった)。

 ③学生をより前面に出して数多く登場させ、学生のための広報誌であることをより発展させる。

 ④とくに、写真を大きく、そして多く挿入し、見やすい広報誌にする。その写真は、教員が撮影する。

 こうして、にっくき敵同士であったはずの私どもは、この熱烈な広報し談議によって、すっかり打ち解け、敵だったのが、いつのまにか、共に苦労を分かち合った「親しい仲間」になっていたのでした。

「コンニャク玉」

 そのK先生と一緒に、蔵王で開催される学会に参加したことがありました。

 蔵王は酸性温泉で有名であり、この体験入浴も学会参加の楽しみのひとつでした。

 K先生運転の小型車で、鶴岡から蔵王に向かう小旅行が始まりました。

 行く手には、あの風光明媚な月山が見えていました。

ーーー あれが、かの有名な月山か!

 初めて見る雄大な姿に心を躍らせていました。

 あの芭蕉も、この月山に弟子の曽良と共に登ったそうで、次の句を残されています。

 「雪の峰 いくつぐずれて 月の山」

 ここを麓から歩いて登っていったのですから、芭蕉の体力は相当のものだったようですね。

 おそらく質素な食べ物しか持参していなかったはずで、その気力、自力は、今の現代人と比較して考えられないほどに優れていたのではないでしょうか。

 この山は雪深く、僧侶たちが修行していたそうで霊山としても有名であり、簡単には知被けない山であることが、車窓からですが、よく解りました。

 この月山を山越えする途中に、K先生が車を止めて休憩しようとした小さな店がありました。

 ここで身体を休めて安堵していたら、その店頭の珍しいものがありました。

 幟も立っていて、そこには「こんにゃくだま」と書かれていました。

 「これは何ですか?」

 「『こんにゃくだま』です」

 そういわれても、よく解りませんでした。

 どうやら、コンニャクを丸くして、串刺しにしたものらしく、初めて見るものでした。

 新しいものが好きな私を察したのでしょうか、K先生が、それを買ってくださいました。

 「これは大きいですね」

 手に盛った串刺しのコンニャクダマを見て、少々驚きました。

ーーー どうやって食べようか? これをすべて食べることができるであろうか?

 こうおもいながら、それにかぶりつきました。

 まことに食べがいがあったコンニャクダマであり、必死で食べ終えた記憶が残っています。

 しかし、K先生の方は、これをぺろりと平らげたようで涼しい顔のままでした。

ーーー それはいつも食べ慣れているからであろうか?

 とにかく、かれの食力にふしぎさを覚えた一時でした。

 この記憶のせいでしょうか。

 何気なく生協のカタログを眺めていたら、山形の「コンニャクダマ」がありました。

 懐かしさもあって、これを注文していただきました。

 「そうだ、あの時も、この味であった」

 これを温めていただいているうちに、上記のK先生とのことをおもいだしたというわけでした。

 今回のコンニャクダマのサイズは、あのときのものよりもより小さくなって食べやすくなっていました。

 このコンニャクダマ、記憶のなかに残すには、あの強烈な大きいものの方が適しているようにおもいます。

 さて、折角ですので、次回においても、月山越えをしたK先生との小旅行の「その後」にも若いることにしましょう。

 私のコンニャク談義、まだまだ続きます(つづく)。

mimo20221109-1
横に広がる元気なミモザ(前庭)