ビュルゲルとの対談

 崋山は、シーボルト一行が将軍に謁見した際に、その助手であったビュルゲルと対談しています。

 崋山は、かつて西洋絵画を観た時から、広く、その優れた西洋の文化に触れたいとおもっていたことから、その弟子との対談をさぞかし喜んだことでしょう。

 この対談は、親しい友人であった官医の桂川甫賢の計らいによって実現されたようです。

 おそらく、この二人は、西洋絵画に関する論議に花を咲かせたことでしょう。

 また、当時の崋山の家老としての任務は海防であったことから、これについても熱心に議論を交わしたのではないでしょうか。

 これによって、崋山は、ますます蘭学と西洋文化への思いを深めたことでしょう。

 折しも江戸には、宇和島藩において囲われていた長英が、幕府による厳しい探索から逃がれて帰ってきていたことから、崋山は、かれと面会する機会を得ることができました。

 その時のエピソードについては、すでに前記事において紹介しました。

 その後崋山は、どのようにして長英と親しくなっていったのか、そのことが気になっていました。

 鶴見俊輔の『評伝 高野長英』においては、長英が、崋山らが参加していた「尚歯会」に熱心に参加を勧められ、重い腰をあげたとありました。

 実際に、長英が実際に参加したのは、その会が終わってみな帰った後のことでした。

 そこでは、崋山との交流の実際が言及されておらず、どのようにして崋山と長英の交流が深くなっていったのかが不明のままでした。

 脚本家の馬場登氏にとっても、おそらく、この問題が重要だったのでしょう。

 その関係が、かれの脚本『わが行く道は遥けくて』のなかで次のように示されています。

 崋山が家老として熱心に仕えていたのは、次期藩主になるはずであった三宅友信公でした(かれは亡くなった藩主の弟でした)。

 しかし、次の藩主に迎えられたのは当時の姫路藩の六男であり、友信公ではありませんでした

 これによって友信公は失意に明け暮れ、呆然として自分を失っていました。

 家老の崋山は、この友信公を目の前にして、かれを励まし、その後の身の振り方を支援しなければならなくなっていました。

 そこで、かれが、この友信公に新たに勧めたのが西洋学(オランダ学)を修めることだったのです。

 そのなかで、崋山は、すでに洋学の第一人者となっていた高野長英が江戸に戻ってきていることを聞きつけ、かれとの面会を、すぐに希望したのでした。

 崋山と長英には、互いに必要とする事情がありました。

 崋山は、かねてから西洋絵画の魅力に触れ、一方で家老として海防を行う任務を持っていたことから、外国船の動きや、その政治経済についても広く、幅広い知見を得たいとおもっていました。

 幼いころからの貧乏暮らしのなかで、そして父親の武士としての苦労を観ながら、そこから抜け出すには学問が必要であることをよく理解していたのではないでしょうか。

 また、上司であった友信公に洋学の勉強を勧めたことから、かれ自身においても、それを研鑽していくことが求められていました。

 一方の長英は、幕府からは逃亡の身にあり、江戸で密かに町医者をしながら生計を立てようとしましたが、それでは貧しく苦労していました。

 また、崋山のように西洋の学問を究めたいというメンバーが尚歯会に集っていたので、そこで知己をえて、自己研鑽をしたいともおもっていました。

 この時期の長英は、単なる医学の先駆者に留まらず、宇和島藩において伊達公が持っていたオランダ医学書、軍事技術、そして、文化、哲学に及ぶ文献を和訳して報告し、さらには、宇和島藩の熱心な弟子たちにも講義を行うことで、幅広実践的な知識を身につけていました。

 また長英は、これらの知識を基礎に、世の中の幅広い政治経済、文化、生活に関して議論を交わして、さらに、それらを高い峰に到達していくことをめざしていました。

 とくに、モリソン号によって、遭難していた和人が助けられ、それを幕府に返したいという申ししれがあったにもかかわらず、幕府がそれを無下に断ったことから、その対応をめぐって小さくない混乱が起こったことで、大衆のなかでも日本の対外政策が広く問われていました。

 尚歯会における議論においても、そのことが活発に議論され、それらが崋山においては「慎機論」、長英においては「夢物語」を執筆する動機となっていきました。

 幕府の筆頭老中は用心と執念の深い水野忠邦は、この崋山と長英を天下を惑わす「危険分子」と見なし、その配下の鳥居耀蔵に、その監視と逮捕を命じていました

 その理由は、かれらが単に医学や美術に長けていただけでなく、政治、軍事、経済、文化、哲学にまで広く西欧の進んだ学問や技術を身につけていたことにあり、かれらが、そのうち幕府を脅かす存在になる、水野を追い詰める輩になると憂慮していたのでした。

 この水野や鳥居の判断は、ある意味で筋が通っていて正確でした。

 かれらの優れた思想と業績が、その非業の死後においても、広く社会において重んじられてきたことからも明らかなことでした。

 さて、この崋山と長英の互いの接近に関しては、脚本家の馬場登の『わがいく道は遥けくて』のなかでみごとに表現されています。

 崋山が家老として苦労したのは、藩の貧乏財政を何とか改善することでしたので、当然のことながら、崋山の家計も大変で貧乏そのものでした。

 一方の長英も、密かに町医者を行っていましたが、同じく貧乏に喘いでいました。

 崋山は、金を出してでも、長英を雇って、長英の洋学の知識を学びたい、さらには、上司の友信公にも勉強していただきたいと願っていました。

 もちろん、長英も、その崋山の意向を理解していましたので、自分の知識を教授することに何も問題はありませんでした。

 しかし、それをボランティアで行うとすると、それは長続きはしない、このことも二人はよく解っていました。

 また、新たな西欧文献を得るには、それを購入するための金が必要でした。

 そこで、崋山が考え出した知恵が、田原藩において藩主に次いで金持ちの友信公に資金を出していただくことでした。

 友信公にとっては、関心を寄せ始めた西欧学のために学者を雇い、文献を購入することはたやすいことであり、崋山は、それを出させることで、長英をつなぎとめ、自分も勉強したいことが叶えられると考えたのでした。

 さらに長英は、生計への支援が得られただけでなく、崋山との学問的同志としての絆をより一層強めることができたのです。

 これによって、友信公、崋山、長英における3者の「一挙得」が実現されました。

 大岡越前の「三方一両損」ならぬ、「三方皆得」が実現し、その好循環サイクルが形成されたのでした。

崋山と長英の「無念」 

 ここから、自然に長英と崋山の友情が深まっていきました。

 何でも、包み隠さず言い合う仲になり、長英は何度も、崋山に、こう勧めます。

 「あなたは、今の家老のままでは、自分を生かすことができないのではないですか?西欧の学問を究めたいのであれば、それに徹したらどうですか!」

 この勧めとは、家老を辞め、隠居して武士も辞め、自由な身になることを意味していました。

 こう説得され、崋山は、その学問の道をめざすことを一度は決心したのですが、それを父親の前でいうことができませんでした。

 崋山は長男であり、父の願いは、その武士の役職を引き継ぎ、家族を養うことでした。

 一方、長英は、同じ武士の3男として生まれ、医者の高野家の養子となり、しかも父の願いであった医者の家を継がず、江戸に兄と共に出て医者になる勉強を続けたのでした。

 そして、シーボルトの師事し、ドクターの称号を授けられるまでに修行を重ね、学問を研鑽する道を歩んできたことから、同じ武士という立場から出発しても、崋山とは本質的に異なる「学者としての自立の道」を選んだのでした。

 一度は長英と同じく、自由な学問の道を歩もうと決心した崋山でしたが、封建制における父親と長男の関係、家老職という地位にありながら海防を担当しながら藩の財政改善に尽力したこと、人格的にはやさしくて父母と家族思い、まじめで実直な藩思いから、長英から勧められた自由な学者への道に踏み入れることができなかったのです。

 ここに「崋山の限界」があったのでした。

 この限界は、二人の後々の人生に小さくない影響を与えることになりました。

 蛮社の獄によって、二人は牢人として長く過ごしますが、崋山は、先に牢から出て自宅での蟄居を命じられます。

 その間も、生計は苦しく、絵を売って、その足しにしていましたが、それを噂にされてしまい、再び苦しむことになりました。

 結局、それで追い込まれ、自刀して逝ってしまいました。

 しかし、長英にとっては、このような人生における選択はありませんでした。

 『わが行く道は遥けくて』におけるエピローグには、その長英の意思が、次のように示されています。
 
 「・・・崋山さんが、腹を切っただと・・・ばかやろう!新でどうなる!

 俺たちはもっと大きく目を見開いて生きるんじゃなかったのかい。

 それを教えてくれたのは、崋山さん、あんただ。

 だから、あんたには、一目置いていた・・・いや、あの日初めて会った時から、俺はあんたという人間に掘れたんだ、なのに・・・なのによ・・・

 おれは死ぬもんか! まだやることがある、しぶとく、生き抜いてやる!」

 この長英の意思表明は、あきらかに『玄朴と長英』を記した青山青果の最後の玄朴のセリフとは異なっています。

 これには、長英の「生き抜いてやる」という意思は、上手く表現されていませんでした。

 やはり、脚本家によって、その長英における「想い」は、かなり異なるようですね。

 もし崋山が自ら逝ってしまう道を選んでいなかったら、この二人は、どうなっていたでしょうか?

 芸術と学問の第一人者たちのコラボは、大きく発展して花開いていったのではないでしょうか。

 次回は、その開花の世界(仮説)に分け入ってみることにしましょう(つづく)。
 
kazann20221102-2
黄梁一炊図(渡辺崋山の絶筆といわれている、「原色日本の美術」より引用)