崋山は、どんな人物だったのか?

  日本のレオナルド・ダ・ダビンチになっていたのかもしれない、とまでいわれた渡辺崋山は、どんな人だったのか、そのことを知るために、先日記した「50年ぶりに読み始めた本*」以外に、数冊の本を手に入れ、読んでみることにしました。

 以下、それらの参考本を列挙しておきましょう。

 『渡辺崋山 思想と芸術』蔵原惟人(著)新日本出版社 *50年ぶりに見つけた本

 『わが行く道は遥けくて 渡辺崋山の生涯』 馬場登(著)鳥影社

 『渡辺崋山』新日本美術文庫 日比野秀男(著) 新潮社

 『原色 日本の美術19』小学館

 これらを読み進めることによって、朧気ながら、「崋山は、どんな人だったのか?」がやや解るようになってきました。

 じつは、で、その理解を遂げようとおもったのですが、これでは、なかなかわかりにくく、へと読み進め、再度に戻るという読書法になりました。

 このなかで、は演劇用の脚本を本にしたものでしたので、崋山の人となりが巧みに表現されていました。

 とくに、おもしろかったのは、高野長英と面会して親しくなっていく様子が、よく描かれていたことでした。

 この二人の性格は、まるで正反対、しかし、互いに未来に寄せる思いは同じであり、互いに必要とした仲であったことが、よく表現されていました。

 なかでも、崋山と長英が初めて面会したときの様子がユニークで、おもしろい趣向を凝らしていました。

 周知のように、長英は、江戸で親の仕送りなしで、得意の按摩をしながら生計を立てていきました。

 その長英が、あいさつ代わりに崋山の按摩をしたことでした。

 崋山は非常に弱小で貧乏とはいえ、歴とした田原藩の家老でしたので、紹介者の小関三英は、無礼ではないかと気を揉んだのですが、長英は、そんなことを少しも気にしませんでした。

 一方の崋山は、何もいわず、気持ちよさそうに長英の按摩を受け入れ、心身を解していたのでした。

 おそらく、長英は、崋山と会うなり、かれが心身ともに疲労していることを見抜き、自分が按摩をしてやることが、親しくなる一番の方法だとおもったのではないでしょうか。

 そして、その方法がズバリ的中して、すぐに崋山と長英は親しい仲になっていったのでした。 

 同じ蘭学者の小関三英には、その以心伝心が解らなかったわけで、かれはご両人の偉大さを改めて感じたのではないでしょうか。

 さて、この話の続きは、まだありますが、それは、後述することにして、崋山の生い立ちに分け入ることにしましょう。

 崋山の父である定通は田原藩士でしたが、禄高も低く、貧乏に耐えながらの生活でした。

 長男として生まれた崋山も、その貧乏生活のなかで幼い頃を過ごしました。

 生まれた8人の子供のうち5人までが亡くなってしまう、という不幸のなかで親子が貧乏に耐え忍んでいました。

 崋山の記憶では、かれの母親は、敷布団やかけ布団もなく、さらには寝間着もなく、ごろんと畳の上で寝ていたそうでそうでした。

 この赤貧のなかで、崋山は絵を習い、それで日銭を稼いで生計に寄与していました。

 絵を1枚描いてもわずかな金にしかならなかったので、一日何百枚と素早く描くことができるようになり、それが画家としての腕を磨くことに結びついていきました。

 ここが、当時の南画と呼ばれていた画家との違いであり、崋山が描いたのは「写生画」と呼ばれる新たな画風だったのです。

 依頼者の要請に基づいて、人物や大衆の様子を描き、そこに芸術性を見出そうとしたのではないでしょうか。

 子供のころから、たくさんの絵を毎日描き続けてきたことから、崋山の絵には無駄が無くなり、洗練されたみごとな線を素早く描くことができるようになったのでした。

 いわば、優れた観察力と共に、「線の妙」が、鋭く発揮されるようになりました。

 絵を描けば描くほど上手くなる、それは名画家となっていく登竜門です。

 どこに、どのように、さっと線を入れることができるのか、そこに、少しも線の入れ間違いがない、その絶妙の線を描くには、何千、何万回という線を描きこむことで磨かれた洗礼性を身につける必要があります。

 崋山は、何事においても博識をめざし、常に今でいう小冊を持参し、そこに視たもの、思いついたものを描きこんでいました。

 23歳の頃に、師匠から西洋画を見せられ、そのすばらしさに驚愕、感激したそうです。

 当時は南画が一世を風靡していた時代ですが、それにはない、そして崋山が見たこともない画像があったのです。

 決して南画の画風には満足できなかったことから、新たな重要な画風の何かが、どこかにあるはずだと常に探究していた崋山にとっては、心躍らせるものがあったのです。

 そして崋山が優れていたのは、その西洋画の到達点を自分の画風のなかに採り入れようとしたことです。

 それが、鷹見泉石像を始めとする人物画像に、みごとに反映・昇華されたのでした。

 おそらく、この3枚の西洋画との遭遇が、ますます西洋学への研鑽を究めようと決意を硬めさせたのでしょう。

 次回は、崋山の思想性と芸術性に、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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  佐藤一斎像(『渡辺崋山 新潮日本美術文庫』より引用、本画は崋山が29歳の作、佐藤は崋山の儒学における師であったことから尊敬の念が込められ、顔の描写は写真のようである)