「創造的突出」が用意するものとは(2)
昨日、K高専名誉教授のH先生の追悼文を、ほぼ執筆し終えました。
4ページ、6564文字の長文になりました。
H先生方が、一般科目授業における「特別研究」などの教育実践の持つ意味について深く考えてきたせいでしょうか?
高専のことが、頭のなかに蘇ってきましたので、それをより前向きに考察してみようとおもい、このシリーズ記事の次を認めることにしました。
前記事において、この2つの用語の意味を調べました。
創造:
① 新しいものを自分の考えや技術などで初めてつくりだすこと。
② 神が宇宙、万物をつくること。
開発:
① 森林や荒れ地などを切り開いて田畑にすること。かいほつ。
② 開き始まること。また、開き始めること。かいほつ。
③ 知識などを開き導くこと。かいほつ。
④ 産業を興して、天然資源を生活に役立つようにすること。
⑤ 新しいものを考え出し、実用化すること。
⑥ 児童の教育で、問答法などを用いて、自発的に学習、理解をうながす方法。
これらが、代表的な辞書における意味として、ほぼ同じように示されています。
そこで、これを踏まえて、K高専でなされた「特別研究」という教育実践は、創造なのか、それとも開発なのか、あるいは、それら以外の意味を有しているのか、これらを改めて考えてみることにしました。
この場合、モノや技術を創造し、開発することが目的ではありませんので、あくまでも、その実践は、自由な研究という域を出ていくものではありません。
しかし、この実践は、個々人の教員が講義を行い、それを学生たちが聴講するという従来型の教育ではなく、自由に研究テーマを決めさせて、その探究を教員が支援することを基本としていますので、その意味では創造的な取り組みといえます。
そして、その成果によって創造的な破壊がもたらされることになったことから、この実践は、創造的突出といってもよいでしょう。
そこで、これを踏まえて、K高専でなされた「特別研究」という教育実践は、創造なのか、それとも開発なのか、あるいは、それら以外の意味を有しているのか、これらを改めて考えてみることにしました。
この場合、モノや技術を創造し、開発することが目的ではありませんので、あくまでも、その実践は、自由な研究という域を出ていくものではありません。
しかし、この実践は、個々人の教員が講義を行い、それを学生たちが聴講するという従来型の教育ではなく、自由に研究テーマを決めさせて、その探究を教員が支援することを基本としていますので、その意味では創造的な取り組みといえます。
そして、その成果によって創造的な破壊がもたらされることになったことから、この実践は、創造的突出といってもよいでしょう。
それから、この教育実践において、前期時において示したように、この授業を通じて学生たちがみごとに成長し、変革していったことを考えると、それは、自発的に物事を考え、学習、理解を促し、自らを切り開いていったことに相当するのではないでしょうか。
さらに、その成長によって、より自分を役立たせ、実用できるようにしたともいえそうです。
そうであれば、次の2つにおいて、その照合を行うと、
さらに、その成長によって、より自分を役立たせ、実用できるようにしたともいえそうです。
そうであれば、次の2つにおいて、その照合を行うと、
1)「創造による開発」
新しいものを自分の考えや技術で生み出すことによって、実用化する。
2)「開発による創造」
実用化によって、生み出された新しい考えや技術のこと。
1)の、自由研究によって、その成果を創造し、論文化、プレゼンテーションをして仕上げ、その過程において、自らを成長させることで実用化した、といえるのではないでしょうか。
1)の、自由研究によって、その成果を創造し、論文化、プレゼンテーションをして仕上げ、その過程において、自らを成長させることで実用化した、といえるのではないでしょうか。
こう考えると、さらに次の2つを照合すると
A) 創造的技術者
自分の考えで新しい技術を生み出す技術者
B) 開発型技術者
新しいものを考え出し、実用化をめざす技術者
A)からB)へと、その技術者養成において、弁証法的な発展があるようにおもわれます。
高専ロボコンやK高専「特別研究」の教育成果は、このA)からB)への発展現象として理解されるのがよいようにおもわれます。
この正しさは、その教育実践によって、いかに学生たちが情熱的に取り組むことによって予想すらできなかったほどに成長できたかを考察することによって証明されるのではないでしょうか。
その意味で、創造的技術者論には限界があり、その見直しが必要な時期にきているようにおもわれます。
H先生が、ご存命であれば、この問題を熱く議論できたはずですが、真に心残りを覚えますね(つづく)。
その意味で、創造的技術者論には限界があり、その見直しが必要な時期にきているようにおもわれます。
H先生が、ご存命であれば、この問題を熱く議論できたはずですが、真に心残りを覚えますね(つづく)。
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