蘇る長英

 1850年10月30日夜、長英は、捕り方にとらえられて自害、享年46歳でした。

 この長英が生きた時代は、どうであったのか?

 徳川幕府の最後の将軍徳川慶喜が、第15代将軍になったのが1967年であり、その前の1853年には、ペリーが浦賀に来航し、日本中が黒船騒ぎで沸き立っていました。

 若き吉田松陰は、この黒船への密航を図ろうとしました。

 また、坂本龍馬も、この黒船に衝撃を受け、それに対抗するには強力な海軍を組織するしかないことを勝海舟から学びます。

 しかし、この黒船来航は長英が亡くなってから3年後に起きた事件であり、かれらと長英の交流はありませんでした。

 おそらく、長英が存命であったならば、あの『夢物語』において外国船の襲来を予測して防衛の重要性を指摘していただけに、その黒船襲来に対して何をなすべきかをいち早く示していたのではないでしょうか。

 当時の老中安部正弘は、黒船来航という「国難」に直面して、幕府は何をなすべきかについて広く意見を求めます。

 それに答えたのが勝海舟であり、それが阿倍の目に留まり、やがて幕府の海軍教練所への創設に結びついていきます。

 勝は、長崎でオランダ語の勉強をしたそうですが、その修得に苦労したそうです。

 長英が、生きていれば、この勝のよき先輩として指導したでしょうし、その後の勝や坂本龍馬にも小さくない影響を与えていたでしょう。

 また、長英と吉田松陰が出会っていたならば、松陰の見識が国際的なスケールを有し、それが、大いに高杉晋作や日下玄随などを啓発していたでしょう。

 しかし、その出会いは実現せず、長英の学識の成果を受け継いだのが村田蔵六(後の大村益次郎)でした。

 大村は、その軍事技術を実戦において活用し、徳川幕府軍を倒す維新軍を組織したのでした。

 長英の没後、かれの信奉者たちによって、長英の仕事の成果や資料が収集されていきました。

 また、明治になって自由民権運動が盛んになり、その象徴的存在として高野長英の生き様が取り上げられるようになりました。

 その代表人物が藤田茂吉であり、かれは福沢諭吉の弟子で、後に国会議員にまでなった人物です。

 かれは、西洋文化を広く取り入れ普及させた貢献者として、渡辺崋山と高野長英の役割を強調し、その新聞論評や著書『長英伝』において、次のような評価がなされています。

 「翻訳の困難についての自覚を持つ翻訳家、獄に投ぜられて東国の経過を実証的に描き続けることをもって文明の精神をにない得た人」

 人気の長英

 藤田らの「正評価」を基礎として、長英の人気は徐々に広がり、やがて、渡辺崋山とともに、芝居にも登場するようになりました。

 その舞台が、新富座、脚本は河竹黙阿弥で、役者は次の通りでした。

 市川団十郎(渡辺崋山)

 市川左団次(高野長英)

 市川海老蔵(小関三英)

 坂東秀調(崋山妻おたか)

 沢村源之助(長英妻お道)

 市川団右衛門(鳥居耀蔵)

 長英役の左団次は、大阪の出身で、東京歌舞伎の発生方法に馴染まず、人気を落としていましたが、それを一からやり直させて芸風を磨かせたのが河竹でした。

 この黙阿弥の脚本と団十郎と左団次のコンビが旋風を巻き起こし、当時は、決して満席に至らなかったなかで、大入りの客止めとなり、それが45日間も続いたのでした。

 市川団十郎、尾上菊五郎、市川左団次という当時の3トップは「団菊左」のうち2人が登場していたのですから、人気が沸騰したのは当然のことでした。

 この黙阿弥脚本は、藤田茂吉の書を元にしたもので、そこでは高野長英を理想化した内容が、ますます長英人気を高めたのでした。

 蛮社の獄で囚われた崋山と長英は、広い視野から幕府に意見したことで罰せられたのですが、それが明治の世の中になって再評価されるようになり、折からの自由民権運動の高まりで、なお一層人気を博するようになっていったのでした。

 崋山は自害、長英は逃亡による抵抗者として、それぞれ悲劇と不屈のヒーローとして演じられたのでした。

 その後も、この長英物語は講談においても長く語られ続け、遂には、死後48年後に再評価されて「正四位」としての叙勲を得たのでした。

「玄朴と長英」

 黙阿弥脚本に続いて、真山青果による『玄朴と長英』が描かれ、引き続き長英人気が広がっていきます。

 かつて、伊藤玄朴と長英は、シーボルトが主宰した鳴滝塾の弟と兄弟子の関係にありました。

 この塾生の時に、シーボルト事件が勃発し(1928年)、かれらは、それぞれ異なる人生を歩むようになります。

 玄朴は、幕府のお抱え医師となって出世し、現在の東京大学医学部の前身組織である「東京医学校」を設立します。

 兄弟弟子でありながら、長英は、シーボルトの精神を堅守したために幕府に追われる身となり、結局は、その自害に至るまでの22年間に亘って「不屈の逃亡者」となりながらも、西洋医学と軍事外交政治学の一番の権威となっていきました。

 その長英が、蛮社の獄で捕らわれて牢名主となっていた時に火事があり、3日間の解放猶予が与えられます。

 その最後の日の前日に、長英は、玄朴の家を訪れ、金の無心を行います。

 かつては、一緒に机を並べて勉強した仲であり、その「よしみ」から、故郷の水沢に住む母に合うための旅費として50両を工面していただけないかと頼みます。

 ここから、延々と二人のやり取りが始まります。

 長英は脱獄者、玄朴は幕府お抱え医師ですので、それぞれの立場は、まるっきり正反対でした。

 それゆえに、金の無心は最初から無理なことでしたが、それでは、演劇が成立しませんので、ここに青果脚本の特徴が色濃く出ていました。

 「おそらく、金の無心は無理であろう、しかし、母に会いたい、何とか頼んでみよう!」

 長英は、このようにおもって玄朴宅を訪ねたのではないでしょうか。

 一方の玄朴は、脱獄した長英を自宅に迎えたくなかったはずでしたが、兄弟子の長英が、強引にもやってきて、おまけに金の無心をし始めたことに不快さを覚えたはずです。

 この設定があって成り立つ演劇ですので、長英は強引に無心する、玄朴は、それを同意できなくて口ごたえを行なう、という構図のなかで演劇が展開されていったのです。

 この演劇を直に鑑賞して、この構図に、やや違和感を覚えました。

 そして、この演劇は、長英よりも玄朴を主にしたものであるとおもいました。

 『評伝高野長英』の作者鶴見俊輔は、この点を指摘しています。

 それは、長年の逃亡生活の中で、その支援者との親密な「やり取り」を行ってきた長英は、このように強引ではなかったのではないかと指摘していたことでした。

 この『評伝高野長英』を詳しく読み終えた時点においては、この鶴見の指摘は正しく的を射ているのではないかとおもいます。

 長英には、少なくない親身の支援者が、江戸や上州にいましたので、そこに支援をお願いすることが自然であり、わざわざ、生き方が正反対の玄朴に金の無心をする余裕はなかったはずです。

 しかし、仮に、その無心に行ったにしても、あのように延々と問答し合うことはなかったのではないでしょうか。

 また、脱獄後の2日目に江戸にいたのであれば、それは危険であり、そこを離れて、より安全な上州の支援者のところに赴く方が、より安全で合理的であったようにおもわれます。

 22年間に亘る不屈の逃亡生活、そのなかでの西洋医学の研鑽、軍事外交に関する高度な見識と洞察、弟子や支援者への厳格ではあるがやさしい教育、西洋哲学を基本にした世界観などを考慮すると、それらを核とした次の脚本づくりが必要ではないかとおもわれます。

 これで次回において最終稿に分け入ることができるようになりました。

 おかげで、『評伝高野長英』の全体像を改めて見渡し、なぜ、作者が、この評伝を認めたのかについて再考してみましょう(つづく)。
 
akaihana
赤い花(中庭)