再び江戸へ
四国の宇和島藩における滞在は約8カ月でした。
この間、藩主の伊達宗城の要請で大量の軍事本を和訳し、そして砲台の設計を行いました。
また、藩の若い侍たちには塾を開いて、8つの「学則」を基本にして、学問研鑽を励行させたのでした。
さらに、長崎の鳴滝塾時代の先輩であった二宮敬作とは、宇和島で、心を開いて語り合い、酒を酌み交わす仲となって、毎日のように親交を温めたのでした。
この二宮は、長英を宇和島藩に招聘する際の斡旋者であり、宗城公に強く働きかけた人物でした。
また、その長英が宇和島を去った後には、その後釜として招聘したのが村田蔵六(後の大村益次郎)でした。
村田は、長英のすばらしい仕事を目にして感激し、その軍事技術の成果を受け継いで、実際に、その砲台を、宇和島の深浦地区に設置した人物でもありました。
そして、かつてのNHK大河ドラマにおいて中村梅之助が演じた大村益次郎として長州軍を組織し、ことごとく幕府軍を駆逐していったのでした。
その意味で、高野長英と村田蔵六は軍事技術を横糸にして繋がっており、明治維新の立役者の一翼を担っていたといってもよいでしょう。
深浦の思い出
余談ですが、この深浦には、カツオの餌となる「カタクチイワシの飼育に関する研究」で何度も訪れたことがありました。
大きな水槽のなかにカタクチイワシを入れて光マイクロバブルを発生させ、長時間の生育を可能にしようとした実験を行いました。
この改善方法が、なかなか見つからず、その過程において、たくさんのカタクチイワシを殺してしまいました。
最初は、カタクチイワシがパニックを起こして大騒動していたにもかかわらず、それを見て、元気がいいと、まるで勘違いの認識に陥るほどに素人的な対応しかできていませんでした。
「先生は、カタクチイワシを殺す研究をしているのですか?みんなそう言っていますよ!」
とまで、漁協の組合長さんに冷やかされるほどでした。
目の前で、その死にゆくカタクチイワシを悔しく観察しながら、次の重要な事実が徐々に解っていきました。
①カタクチイワシの腹に光マイクロバブルが付着し、しばらくすると死に至る。
②それゆえに、その腹に光マイクロバブルを付着させないように工夫しなければならない。
➂そのためには、水槽のなかでゆっくり泳がせる必要がある。
④調べてみると、カタクチイワシは体長の2倍の速度で毎秒あたり泳ぐので、それを水槽内に形成させることが重要である。
⑤そのための水槽内循環流の形成にはマクロな気泡の上昇流を用い、光マイクロバブルは生理活性作用を担わせる。
これらのヒントを得て、実際に実験を改良していくと、カタクチイワシが群れをなしてゆっくりと動きだしました。
この瞬間が、カタクチイワシを「殺す研究」が「生かす研究」へと変わっていく境界でした。
そして、その日から安心して、朝帰りの新鮮なカツオの刺身定食を組合の食堂において、心置きなく食べることができるようになりました。
カツオ料理として有名な「たたき」は、カツオが傷みやすいので、それを長持ちさせるために工夫したものですが、その「たたき」よりも、はるかにおいしかったのが、その朝帰り(夜に出て朝に帰ってくる)のカツオでした。
その新鮮なカツオをいただいき、そのおいしさが脳内に刻まれていますので、それ以降は、一切、カツオの「たたき」を食べなくなりました。
苦労して、カタクチイワシの実験において、ようやく活路を見出したのでしたが、それを見て、漁協の組合長さんが、次のようにいいました。
「そうだよ、この泳ぎ方が、いいんだよ!これをいつも見ていたんだよ!」
そういわれて、
「そうであれば、最初にいってほしかった!」
と内心おもいました。
実験を毎日見学にきていた組合長さんと親しくなり、いろいろな話をしていたら、お孫さんがひどい皮膚病だと聞いて、早速、その実験も行いました。
どうやら上手くいったようで、その結果を確かめてから、組合長さんは、お孫さんに、光マイクロバブルの入浴装置をプレゼントされました。
実験が終わってから、この深浦地区を車で見て周りましたが、坂や崖が多く、長英と蔵六さんが砲台を据える場所として選んだ理由がよく解りました。
二宮敬作が高野長英を宇和島藩に呼び、その長英の仕事を村田蔵六が受け継ぎ、兵法を学んで、長州藩において「花神」として大活躍していったのですから、二宮と長英は、その維新の陰の立役者となっていたといってもよいでしょう。
絶命
だいぶ、横道に反れてしまいましたが、本題に戻りましょう。
宇和島藩を離れた長英は、途中で広島藩に立ち寄り、そこから再び宇和島に戻った後に、江戸に向かいました。
その時もなお、幕府の捜索は厳しく続いており、顔を酸で焼いて変装しながら、ひっそりと町医者をしながら家族とともに生活をしていました。
しかし、それでも隠し逃れることができずに、住居に迫ってきた役人たちを前にして、長英は、自ら命を絶ってしまったのでした。
享年46歳、若き医者でありながら、偉大な学者、哲学者の最後でした。
この生き様が、晩年の鶴見俊輔を揺り動かし、評伝の執筆に向かわせたのではないでしょうか。
そして、長英の仕事は、その死後においても末永く評価を受け続けたことから、1998年、すなわち死後48年も経ってから、「正四位(しょうしい)」の称号を得たのでした。
この位は、今でいう事務次官、軍人では大将に匹敵するもので、それだけ、長英の人気と評価が高かったことが、その付与に結びついたのでした。
それは、長英が、人々の「心に火を灯し続けた証明」でもありました。
次回においては、長英の死後も人気を博した理由について考えてみましょう(つづく)。
ビワの若葉(前庭)
コメント