「学則」(2)

 高野長英が示した「学則」の2つめは、オランダ語を含めて外国語文献を読み、理解していく、いわゆる「読解」に関する認識論において思慮深い指摘がなされています。

 4つの読解法

 1.   「支留刺別(シルラベ)」

 「文字を綴り、音韻を生じ言語をなすところを教える初科」

 2.「知葛(ガランマチカ)」文法

 「語の品類を分かち、分の基本を定め、語の変化をなす法則の科」

 3.「泄印多斯(セイタキス)」

 「諸語排列の順次を説き、語脈文意のつながる法則をしらせ、語を布置して文をつくる法をしらせる科」

 4. 「魯細伽(ロジック)」

 「挙げて神魂智慮の諸用に属す、これ自ら活発且つ敏疾にして、而して諸書に臨み其説の当否を弁じ、其理の真偽を定め、且結文の法を立つるの科なり。これを第一等の科となすなり」

 カッコ内は評論者の解説ですが、これを読むと、長英がオランダの医書を読み、どう理解していったかの認識論の手法がよく解ります。

 最初は音読をしながら、言葉の意味を探り、次に文法を理解し、文章の構成を詳らかにしていきます。

 そして語脈と文意を理解し、最後には、その真偽を確かめ結論を得るという理解の過程が示されていて、一番大切なことは、その4番目のロジックにあると示されています。

 ただ単に、その内容を解釈するのではなく、その真偽を確かめ、何が重要な結論として得ることができるのかを定めることが重要であると諭しているのです。

 この長英の読解に伴う認識論の特徴を、鶴見は、次のように解説していますので、それを再度示しておきましょう。

 「『原点を読む際に、おなじ密度を持って一語一語を追うのではなく、その全体の中でかなめのキー・ワードを見分け、その解読に集中するというのが流儀である』、そして使いこなされた『哲学』である」

 この哲学における認識論こそが、長英が命を懸けて身に付けた学問の方法だったのです。

 前記事において、長英が好んで引用した「雫が石をも穿つ」という学問の方法は、具体的には、オランダ語他の西洋語をどう理解していくかにおいて、上記の4段階が存在していたのです。

 すなわち、水の雫が石をも穿つには、なによりも、その文章における「キー・ワード」を探し出し、それが有する本質的意味を理解することが重要であり、それでこそ、その石を穿つことができる可能性が生まれてくるのです。

 じつは、末端の、あるいは尖端の末梢的なことに拘り過ぎると、さらには、従来の常識や実績に引っ張られてしまうと、その肝心の本質が観えなくなる、深く理解することができなくなることが往々にして、よくあります。

 常識外れのことが、いくつも起こってきた光マイクロバブルの研究においても、このようなことが頻繁に起こってきました。

 その時、それをどう考えるか、常識を疑い、新たな知見を得るには、それなりの洞察力と判断力、評価力が必要でした。

 それらは、最初から身に付いている力ではありませんので、その養成には修行と洗練が求められることになりました。

 学問において、何が一番大切なことなのか?

 それは、長英がいう「真偽を確かめ、何が結論として得ることができるのか」を明らかにしていくことではないでしょうか。

 その真の結論こそが、従来の石のように硬い学問の殻を打ち破る力を有して宇野ではないでしょうか。

 その意味で、長英の哲学は、その後の学問を切り拓く鋭い刃を有した金棒になっていたといっても過言ではないでしょう。

 些末な情報が溢れかえっている今の社会において、この長英の学問に関する認識論は、ますます重要性を帯びてきているように思われます。

 次回は、学則3~5について分け入ることにしましょう(つづく)。
 
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紫陽花(前庭)