宇和島へ

 江戸で隠れて妻子と共にひっそりと暮らしていた長英は、かつての鳴滝塾の弟子であった伊東玄朴の仲介で宇和島に行くことを決めました。

 その理由は、宇和島藩第8代藩主であった伊達宗城(だてむねなり)からの密かな招聘があったからでした。

 かれは、幕末の「四賢侯」の一人といわれ、西洋文化に造詣が深く、当時の伊達藩には数百冊のオランダ書が収集されていました。

 また、島津久光とも親交があり、おそらく、島津藩と同様に、軍事技術の強化を図りたかったことから、それらのオランダ書を眠らしたままではいけないと思われたのではないでしょうか。

 さらにかれは、長英については、密かに『夢物語』を読んで、その傑出ぶりに感心していたそうであり、密かに長英と二回も面会していたそうです。

 そして、密かに幕府の目を盗んででも、かれを招聘して藩の軍事技術の発展に貢献してしていただきたいと願っていたようです。

 それゆえ、佐賀藩の藩医であった伊東玄朴に依頼して、長英の宇和島行きの打診を行ったのでした。

 このように、今の時代、政府の「お尋ね者」を匿う太っ腹の自治体の首長がいるでしょうか?

 影ながらではあったものの、藩主の後ろ盾によって、ある意味で存分にオランダ書に向き合うことができた長英にとって、その招聘は、真にありがたいことでした。

 「あてもなく、もう転々と全国各地を逃げ惑う心配は無くなる!」

 こう思ったにちがいありません。

 宇和島には、伊東玄朴の弟子として「伊東瑞渓(ずいけい)」と名のって入りました。

 シーボルトの鳴滝熟における兄弟子としての二宮敬作がいました。

 かれは、宇和島の藩医にまでなる地元の名士であり、後見人として長英の支援を行うとともに、よく酒を飲みかわす酒豪仲でした。

 かれの次男は「逸二」といい、長英が宇和島で最初に開いた「五岳堂」という長英塾の優秀な弟子でした。

宇和島での仕事

 宇和島での長英の最初の仕事が、この塾に集った若き藩士にオランダ語を教えることでした。

 その後、宗城の蔵書のひとつであった『砲家必読』全11冊(砲術書)の邦訳を行い、かれらにも、その仕上げの清書を手伝わせたそうです。

 この書は、すぐに宗城に報告され、大いに活用されたそうで、後に村田蔵六による深浦地区における砲台設置の基本になったといわれています。

 蔵六(後の大村益次郎)さんも、長英の実践的な砲台設置書を読まれて、さぞかし驚嘆されたのではないでしょうか。

 シーボルトの弟子であった二宮敬作は、長英が宇和島を離れた後に、村田蔵六の宇和島への招聘に尽力しました。

 おそらく、二宮は、村田に長英のことを詳しく話したはずですし、長英が邦訳した膨大な兵書を村田が読んで、その実践に役立てたのではないかと思います。

 この経験が、後の明治維新において、その立役者となった村田(大村益次郎)に、小さくない影響を与えたはずです。

 こう考えると、長英の業績は、明治維新の陰の立役者的存在であった可能性もありますね。

 ペリー来航とともに、明治維新における長州藩の近代戦法に、長英の兵法翻訳が小さくない寄与をしていたのかもしれませんね。

 この深浦地区にある深浦漁港には、カツオ漁の餌となるカタクチイワシを水槽内で飼う実験をしに、何度も訪れたことがあります。

 ここには、高地から海を見渡すことができますので、砲台設置に適した場所として選ばれたのでしょう。

 この漁港に漁協が運営する食堂があり、そこのメニューのなかにカツオの刺身定食がありました。

 その日の朝に出向して昼までに帰ってきて、水揚げされたカツオの刺身が、そのまま出てくるという、なんと豪勢な定食であり、カツオがこんなにおいしいものかと感動したことがありました。

 宇和島での長英の次の仕事は、宗城の洋書の蔵書や文章の目録を作成することでした。

 このなかには英語の文献もあり、宗城が敵入れてきた英語の辞書を用いて、その目録作りに活用したようです。

 これは、『訳業必要之書籍目録』全1冊として、すでに著されていた『知彼一助』全1冊、『三兵答古知畿(タクチキ)』全27冊とともに、宗城に提出されました。

 また、最後者の兵書は、塾におけるテキストとしても活用されました。

 こうして、長英は、宗城からの小さくない信頼をえるようになっていきました。

 かれのノルマは、兵書の邦訳と解説、さらには砲台設置計画づくりでしたが、知の巨人としての長英にとって、宗城が集めた洋書は宝物に等しく、自ずと、その読破と分析、考察を深めていったのでした。

 これに関しては、著者の鶴見俊輔ならではの、次の指摘がなされています。

 長英の学問研鑽は、長崎でのシーボルト鳴滝塾での西洋医学に始まり、その後の江戸においては、それが疫病の防止、食物や薬草の摂取などの免疫学、また、尚歯会における政治、軍事・外交学に拡大していきました。

 そして宇和島では、伊達宗城の兵書に関する邦訳を素早く済ませ、さらに、その蔵書目録づくりを始めとして、広い分野の蔵書の読破と考察へと向かっていったのでした。

 その指摘とは、その蔵書のなかにあった哲学書の読破によって、長英自身が哲学を究めていたことでした。

 周知のように、鶴見は、19歳で渡米し、独学でハーバード大学の哲学科に入学したほどの秀才でしたが、かれが勉強した哲学書を、長英は約100年も前に勉強していたのです。

 これによって長英は、日本初の西洋哲学者にもなっていたのであり、かれは哲学者として。鶴見の大先輩だったのでした。

 そこで長英と鶴見の共通性を改めて考えてみましょう。

 ①二人とも語学に格別に優れた人物でした。長英は、11ものオランダ語の論文を書き、その数は、他の弟子たちの3~4倍にも達していました。

 そして、それがいくつもシーボルトが著した大著作「NIPPON」のなかに多数引用されたのです。

 一方、鶴見は、独学でハーバード大学哲学科に合格し、そこで西洋哲学を学び、英語だけでなくドイツ語も学んだことで、ドイツ語の通訳として日本海軍に入隊することができました。

 ②2つ目の共通性は、逃亡者としての生活経験にありました。

 蛮社の獄によって永牢の身となった長英は、埼玉、群馬、新潟、宮城、岩手と逃げ、江戸にもどった後は、宇和島、広島、大阪などと日本全国を転々としながら逃亡者生活を余儀なくされました。

 一方の鶴見は、軍隊において実際に逃亡までには至らなかったものの、何度も逃げようと思ったことがあったようです。

 そのこともあって、ベトナム戦争において脱走したアメリカ兵の逃亡を助け、匿ったこともありました。

 この生活と境地において、逃げながらも、学問の研鑽と医療に従事して、単に逃げ周ることのみではなく、学者として自分を磨くことと忘れなかったことにも重要な共通の特徴があったのではないでしょうか。

 ③3つ目の共通性は、かれらの博識の広さにありました。

 長英は、オランダ医学、政治・外交、予防医学、食物学、軍事技術、兵法、哲学へと、広く視野を広げていき、遂には百科全書的学者になっていきました。

 たとえ、幕府から追われる身になっても、筋を曲げずに、今風にいえば、「心の命ずるまま」に生き抜こうとしたのであり、その道しるべこそが学問だったのです。

 一方の鶴見俊輔は、語学を現地で勉強し、ハーバード大学の哲学科に入学し、西洋哲学を学びました。

 しかし、不幸にも戦争になると、海軍に入り、英米の動向を主とした新聞を作らされ、ジャーナリストとして生きようとします。

 敗戦後は、大学教員になりながら政治思想史から漫画論まで、その哲学的思考を広げ、言語論、文化論、平和論まで探求するようになります。

 これらは、非常によく似た共通項があり、鶴見は、この評伝を書くにあたり、自分のルーツは、この高野長英にあったのではないかということが頭のなかで過ったのでははないでしょうか。

 そして、この評伝を書くために、歴史を辿り、人に会い、長英が何を考え、どう行動したのかを調べ、考究していくことに、そこはかとない喜びを覚えていたように思われます。

 次回は、長英の哲学観をどう考え、どう解していったのかについてより深く分け入ることにしましょう(つづく)。

kii55
中津の歯科医院の庭に咲いていたキンシバイ