逃亡者としての長英

 1884年、小伝馬町の牢屋の大火によって長英は、脱獄したまま、無宿者たちがいた上州を中心に逃避行を続けました。

 頼みの綱は、かつて医学を教えた弟子たちや友人、そして牢名主として面倒や介護を行った出獄後の囚人たちでした。

 以来2年間、江戸に再び戻ってくらまで、延々と逃亡者としての暮らしを余儀なくされたのでした。

 なかでも、長英が牢名主であったころに、群馬県吾妻郡中之条の旅館の主人「田村八十七」が入獄してきた際に、かれを介護し面倒をみたのでした。

 田村は、義理と人情の厚い上州人として、世話になった長英を必死で匿ったのでした。

 かれの経営していた「鍋屋旅館」には、長英が匿われていた隠れ部屋は「瑞皐(ずいこう)の間」と呼ばれていました。

 長英の号は「瑞皐(ずいこう」でした。

 八十七の娘リウは、長英のことを覚えていたらしく、この娘も含めて長英に教えられた医学的知識に関する家訓が、今も伝えられてきたそうです。

 しかし、幕府の探索は執拗であり、その後も上州の各地を転々とし、さらには、その逃避行は、新潟、福島、岩手と続いていきました。

 この逃亡者としての長英のことを考えていたたときに、高校生の頃に視た『逃亡者』というアメリカの人気テレビ番組のことを思い出しました。

逃亡者「リチャード・キンブル」 

 今調べてみると、この「逃亡者」は、アメリカにおいて1963年から1967年までの長きにわたって放映された大人気番組であり、最終回は50%という超高視聴率を達成しました。

 日本でも1964年から1967年まで放送され、その最終回の視聴率は31.8%という「お化け番組」でした。

 我が家においても、東京オリンピックを前にして白黒テレビが購入されていましたので、手に汗握って、この主人公のリチャード・キンブルの行方に、はらはらしながらテレビを食いるように視た記憶が残っています。

 主役のデビット・ジャンセン扮するリチャード・キンブルは小児科医であり、その点が長英と同一です。

 キンブル医師は、その逃亡先で数々の病人を助けますが、長英も同じで、病人を助けることで生計を維持しようとしますが、それを長く続けていると自分の身が割れてしまいますので、また、次の違う場所に移動せざるをえなくなりました。

 長英の場合は、それが弟子たちや同業者としての知り合い、そして牢屋で面倒を見た囚人たちでしたが、キンブルの場合は、見知らぬ地で見知らぬ人々のなかでの交流と逃避でした。

 かれらを追うのは、それぞれ鳥居耀蔵とジェラード警部であり、これらの個性は互いに違っていました。

 前者は、老中水野忠邦の忠実は配下であり、後者は、ひたすら犯人を追う執念の男でした。

 逃避の目的にも違いがありました。

 長英は、逃避しながらも、オランダ医学や西洋軍事学を学び、それらを日本流にまとめ体系化していきました。

 一方、キンブルの方は、妻殺しの犯人を、ひたすら執念を持って追い続け、自ら見つけ出して、妻殺しの罪を晴らすことにありました。

 このキンブル主演の番組は4年間続きましたので、かれの逃亡期間は、それと同じ4年でした。


 同じ番組が4年の長きにわたって続いたのですから、いかに人気の高い番組だったのかが、そのことからもよくわかります。

 しかし、長英の「逃亡生活」は、それ以上に長いものでした。

 脱獄から上州他を経て江戸に帰ってきた期間が約2年、そこから宇和島へ、そして再び江戸に帰って捕まるまで4年、合計6年の歳月を費やしたのですから、まさに、それは不屈の逃亡だったといってよいでしょう。

 この間、宇和島に赴くまでに、長英は、『知彼一助(かれをしるにいちじょ)』という技術論文を執筆し、さらに『三兵答古知畿(タクチキ)』を全27冊を全訳しています。

 鶴見によれば、前者は、「イギリス、フランスを中心とし、オランダ、アメリカもあわせて、それぞれの国情を記した国際政治的論文で、書き方をとおしてのイギリスの制度日本の為政者が眼をむけるように心を配っている様子をうかがうことができる」と紹介されています。

 また、後者は、「全27冊、兵書の全訳。歩兵、騎兵、砲兵の訓練と実戦技術を説きあかした。翻訳は、達意の文章で、役者としての長英の最高の仕事」と記されています。

 同じ逃亡者であっても、キンブルにおいては、このような学問的仕事を行う余裕がありませんでした。

 長英は、医者でありながら政治と軍事において世界の第一線の博識を有していた大学者であり、政治家でもあったことから、この存在を幕府の水野や鳥居は決して許すことができなかったのではないでしょうか。

 リチャード・キンブルは、その最終回において妻殺しの真犯人を見つけます。

 また、そのことをジェラード警部も確認して、この物語は終わります。

 当然のことながら、キンブルは無罪となり、その後は堂々と生きていけるようになりました。

 しかし、長英の方は、永牢を申し渡され、帰牢しなかった罪も加わり、さらには、たとえ夢物語であったとしても幕政に物申したという罪で、決して許してはもらえない人物になっていました。

 逃亡者としての長英は、宇和島での2年間において、さらに優れた仕事を成し遂げます。

 次回は、その営為に分け入ることにしましょう(つづく)。
kusunoki
楠木(中津北高校玄関前庭)