対極における共鳴現象
 
 わが国は、「黄金の80年代」を迎えて、その産業構造における大きな変容を遂げるようになりました。

 1989年の世界トップ企業20社のうち、日本国内の企業が14社を占めるようになったのです。

 断トツのトップがNTT、それに大手銀行が続いて、東京電力、トヨタは11位、その後に電機メーカーがずらりと並んでいます。

 また、当時、世界のマーケットリーダーとなっていた日本国内の半導体メーカーも好調を続け、国内上位30社の89年度半導体生産額は前年度比11.2%増となり、初めて4兆円の大台に乗せていました。

 じつに、ニッポン半導体はこの年、ワールドワイド半導体市場の50%強の生産シェアを獲得し、まさに世界の頂点に立つことになったのでした。

 また、この年の米日のGDPは、5641.6(10億ドル)と3117.1(10億ドル)でした。
 
 米国は、二位の国が、自国のGDPの6割を占めるようになると、その国を蹴落とす政策を激しく行うという暗黙のルールがあるようで、日米通商交渉、日米半導体協定などによって、日本の産業は属国化を遂げて、頭を押さえられるようになっていきます。

 この黄金の80年代の矢先に、「国専協(国立高等専門学校協会)」によって『高専の振興方策(1981年)』がまとめられました。

 ここでは、それまでの高専教育の「三枚看板」であった「実践的技術者養成」、「中堅技術者の要請」、「大学に準じる工学教育」のうちの後ろ二枚を外して、「実践的技術教育」と「豊かな人間性教育」の2つにしてしまったのです。

 同時に、そのカリキュラムに関しては「大綱化」という概念が適用され、ある程度自由に、その教育内容を決めることができるようになりました。

 このある意味で大きな「自己否定の改定」は、当然のことながら、高専の現場に、次の2つの小さくない混乱と動揺をもたらしました。

 その第1は、二年で大学の4年分を教えると息巻いていた詰め込み主義が、あえなくとん挫したことでした。

 「これでは、『高専らしさ』が無くなってしまうではないか。どう大学生と勝負するのか?」

 「中堅技術者でなければ、どのような技術者をめざせばよいのか?」

 「実践的技術者といっても、実験実習や設計時間を増やしただけなので、それをどう発展させていったらよいのか?」

 これらの疑問や嘆きは、ある意味で当然のことでした。

 高専教育のあり方を研究し、改善していくという指向を持っていないかぎり、このような否定に対して、悲嘆と疑問を持つしかなかったのです。

 第2は、高専を管理してきた当局側においても、戸惑いが生まれてきたことでした

 「もはや、高専の使命は終わったのではないか?」

 「高専らしいアイデンティが無くなってしまった。これから何を目標にすればよいのか?」

 「本来の実践的技術教育とは、こんなものではない。このままだと産業構造の激変に高専は吐いていけなくなる」

 これらの当局者の本音は、自らが審議し、提出して、報告された『高専の振興方策』によって「自己否定」されたことを如実に示していました。

 その後、高専の名称を「専科大学」に変更するという、無理な発想での法案作りがなされ、文部大臣が2度までにわたって記者会見をして、この構想を推し進めようとしましたが、それは、次の理由において、もともと不可能なことでした。

 ①名称変更のみで「専科大学」にしようとしたことにあり、これが表紙のみの変更だったことに無理がありました。

 それは、この法案を審議していた内閣法制局から、「大学でないものを大学とは呼べない」といわれて、頓挫したからでした。

 ②これは、高専を高等教育機関として、その設置基準が決められているのに対し、大学は、高等の研究教育機関と定められていますので、高専を大学に名称変更するには、高専を「研究教育機関」と改定する必要がありました。

 この最も重要な問題を避けて、ただ「名称変更」のみを行うという、表層的改革でしかなかったことに根本問題がありました。

 当時の専科大学への名称変更論の根拠は、「少子化」、「大学への進学率の増加」、「産業構造の激変」に、「高専は対応できなくなる」と予想したことにありました。

 その後の事実は、これらがまったくの杞憂であったことを示しています。

 少子化傾向のなかで、高専は、それぞれの工夫と努力で志願者確保を行っていますし、たしかに大学進学率は増加したものの、高専本科や専攻科への進学も着実になされてきたのでした。

 また、産業構造の急変は、高専が対応できなくなったのではなく、むしろ逆に、その変化に高専自身が徐々に変わっていくという実績を積み重ねていったのでした。

 その意味で、上記の専科大学化の理由は、いずれも的外れだったことから、その本質は「騒動にすぎなかった」のではないかと思いました。

 しかし、それを主導したN高専のK校長は、「実践的技術者の養成」に関する課題の重要性を強調されていましたが、これについては慧眼的側面があり、今日もなお、究明すべき課題といえます。

 この騒動が治まって、いよいよ、自らの存在意義を無くしてしまった当局のなかには、地道に、高専の存在意義を探究することの重要性に気づく方も出現するようになってきたのでした。

 これが、高専教育の自主的研究の源流のひとつとして形成され始めたのでした。

 共鳴の源流
 
 『高専の振興方策』、それに続く「専科大学騒動」は、高専の現場に、どのような影響を与えたのでしょうか?

 前記事と重なる部分がありますが、非常に大切な問題ですので、その源流から下流へと漕ぎ出すことにしましょう。

 その最大の教訓は、自分たちの今と将来は、自分たちで研究して創っていくという、ある意味で当たり前の確固とした自覚が生成されたことでした。

 この源流が形成され、徐々に大きな流れへと発達していきました。

 その舞台が、全専協(全国高専教職員組合協議会)における教研活動であり、そこでは「教科研究の在り方」、「高専における研究の在り方」が熱心に議論されていきました。

 ここでは、高専における教科研究を、どう行うか、高専らしい研究とは、どうあるべきか、また、教育と研究の対立をどう止揚していくのかをめぐって魅力的な討論が毎回繰り広げられていました。

 当時のことを振り返ると、この熱き討論のなかにこそ、高専の未来を切り拓くヒントがあるのではないかと思いました。

 そして、当時の私に、降りかかってきたのが、高専白書(第三次)の巻頭の総説論文を書けとの依頼でした。

 当時の私は、その全国組織の委員長でしたので、断るわけにもいかず、たしか、「高専における民主的改革と展望」という大それた題目を思いつきました。

 そのせいか、この論文の執筆が進まず、悪戦苦闘したことを今でもよく思い出します。

 なぜなら、その肝心の「民主的改革」を具体的にどう実行していくのかに関して、自分の考えが不十分なままであったからでした。

 とくに、高専にふさわしい実践的な技術者教育に関する具体的な方法、あるべき高専生像(高専生の使命)、高専の将来のあり方などにおいての系統的な探究ができていませんでした。

 高専白書に関して、当時のことを、本ブログの2017年2月9日に掲載していましたので、その一部を以下の青字で再録しておきましょう。

 「『高専白書(第三次)』は、非常に評判を呼び、すぐに売り切れ状態になり、増し刷りをするまでになりました。
 こんなことは初めてのことであり、私たちを喜ばせるとともに、少なくない読者の関心を集め、勇気づけたようでした。
 また、Y県のU高専のO校長から、この白書における私の論文について『読みましたよ。なかなかおもしろかった』と声をかけられたこともありました。
 私としては、巻頭論文を執筆したこともあり、その反響を気にしていましたが、このような売れ行きと反響の多さに、内心、ほっと胸をなで下したしだいでした。
 しかし、この論文執筆において、自分自身のなかに、高専をどのように発展的に改革していくか、その展望のなさと未熟さを痛感させられたことに、小さくない反省をさせられました。
 『こんなことではいけない』
 結局のところ、相手の動きをどう分析し、考察を行うことに留まっているではないか、どう個別の高専とともにその全体をも改革していくのか、そのために何をすればよいのか、どういう組織化をすればよいのか、このような思いが髣髴として湧いてきました。
 『この反省を踏まえて、『高専の民主的改革と未来』に関する研究を開始し、発展させなければならない』
 この時、このように自分自身にふかく言い聞かせたのでした」

 真に恥ずかしいことでしたが、これによって私は、本質的な深い自己否定をせざるをえなくなり、これを契機にして、その課題に関する研究を粘り強く進めていくことができるようになりました。

 この2つの源流の形成と共鳴現象は、その後の高専と高専教育における重要な内的発展の契機になり、それが小川の形成、そして川へ、さらには大河へと変容していきました。

 これは、上記の自己否定と反省が、その執拗に蔓延っていた病巣を取り除き、大小さまざまな創造的破壊と突出を繰り返す螺旋へとなっていったのでした。

 次回は、この共鳴現象が生み出した創造的突出の具体的な核心部分について分け入ることにしましょう(つづく)。

huri-ja
フリージャ(中庭)