牢屋暮らし

 長英が入れられたところは、大衆の罪人たちがいるところであり最低水準の牢屋でした。

 かれは、そのことを恨むどころか、歓迎して積極的に、そこの罪人たちとの交流を行いました。

 まず、囚人たちの病気を治してやりました。牢屋の不衛生も改善しました。

 狭いところに大勢の囚人たちが閉じ込められ、厳しい取り調べが毎日のように行われていたのですから、そこでは、たくさんの病気を抱えた囚人たちで溢れかえっていました。

 いくら囚人たちが剛毅といっても、自分の病気には勝てませんので、それを見事に治していく長英の信頼は日に日に増していきました。

 同時に、豪放磊落で小さなことに拘らない性格が囚人たちに受けて気に入られました。

 さらには、西洋医学の研鑽者としての賢さ、政治や軍事の研究者としても優れており、このような飛びぬけた長英が牢屋にいることは、かれらの尊敬と自慢の的でもありました。

 しかも、だれよりも長く入牢していたことから、それらの実績が長英を牢名主という囚人の頂点にまで押し上げたのでした。

 おまけに、蛮社の獄における詮議によって、ただ夢物語を書いただけだったにもかかわらず
「永牢」という処分を言い渡されたのでした。

 死ぬまで、牢名主を続けるという「お沙汰」によって、長英に対する恐れと尊敬はますます高まり、箔がついていったのでした。

 まずは、周囲の囚人たちと仲良くなり、自分へのよき理解者を得るという手法は、若き吉田松陰が野山塾において囚人たちに講義を行って信頼を得たことによく似ています。

 また、長英は、その牢名主の地位を利用して、自分のやりたいことを最大限に実行していった人物であり、周囲の逆境を見事に跳ね返して、十二分に活用するという普通の人ができない世相分析と文筆という離れ業を遂行していったのでした。

 これに対し、渡辺崋山は、厳しい詮索によって心身を痛めつけられ、おそらくは好きな絵も描けなかったのではないでしょうか。

 その取り調べを耐え抜き、証拠不十分で放免されますが、その後も、厳しい政治経済環境下において苦労が続き、最後には自殺に追いやられてしまいました。

 この両者の違いを作者の鶴見俊輔は、崋山を江戸時代という封建社会から抜け出すことができなかったと考え、長英は、それを突き抜けた近代社会にふさわしい自立を遂げた人物と評しています。

 入牢した長英が最初に認めたのは『蛮社遭厄小記』でした。

   これは、まず、蛮社の獄において自首した自分の立場と事情を母に説明して、自分の悪い噂を打ち消すことに配慮して書かれたようで、真っ先に、同じく入寮していた親しい友によって母のもとに届けられました。

 また、これには、日本における蘭学の小史がまとめられており、学者としての長英の蘭学に関する優れた見識が示されているとされていました。

 この論文化が、入牢後3年目の仕事であり、以後の長英は、次々に執筆を重ね、現実を動かす文筆家としての優れた業績を積み上げていきました。

 『ニ物考』

 『避疫要法』

 これらには、1833年に起きた大飢饉における有効な対策法が示され、前者においては、天候不順であってもよく育つ「早そば」と「じゃがいも」の二種栽培を奨励したもので、その植物的特徴をオランダにおける植物学に基づいての解説がなされていました。

 また、後者は、すでに著していた『瘟疫(温疫)考』全二冊に次ぐものであり、より現場に則して使いやすいように改定されていました。
 
長英と俊輔(3)
 
 このように、長英は、社会において実際に起こっている現象に関して、自分の知識を総動員し、さらには、必要な情報を牢名主の権限を最大限活用して文筆家としての資質を発展させていきました。

 オランダの医学を軸に据えながらも、現実に起こっていることに対しても、その抜群の博識を適用するところに、かれの並外れた洞察力がありました。

 作者の鶴見俊輔は、長英の文章に関して次のように評価しています。

 「長英の散文は、少年のころの手紙においてさえ、事実のぎっしりつまったもので、それを今日の会話体にもどせば、誰がこう言って自分はこう言ったという脚本のように読めるような性格を備えていた。序文などは、漠然とした情緒を表現することが普通であるのに、事実と論理でひとおしにおしており、今彼をとりまく日本の必要にこたえるために彼のもっている全知識駆使するというふうである」

 「これと同じことが、著者である鶴見俊輔の『評伝高野長英』についてもいえる」

 これが、私の感想であり、ここに、長英と俊輔における第三の特徴があるように思われます。

 優れた文筆家としての俊輔が、こう長英の文筆を評価しているのですから、そこにおもしろさを見出していたのではないでしょうか。

 俊輔は、ハーバード大学で哲学を学び、帰国後は、海軍にドイツ語の通訳として入隊し、その赴任地においては、毎日、英米の短波放送を聞いては、新聞を作って配布していたというのですから、まさに文筆家であり、ジャーナリストの仕事もしていたのでした。

 また、様々な分野の出来事に関心を持ち、政治においては、ベトナム戦争の脱走兵を匿うという実践までしてしまう行動派であり、大学教員として、政府に抗議して三度も辞職することまで行う人でした。

 さらに、漫画論においても、有名な著作を認めているようで、それらを含めて、この評論の読後には、その著作を読み進めてみようかと思い始めました。
 
 「よい本は、次のよい本を読みたくさせる」

 これは京大教授であった戸坂潤の名言ですが、真に、その通りですね。
 
 おそらく、俊輔は、長英のことを調べていくうちに、そこに自分と同じものを次々に見出していき、そこに格別の興味を覚えながら、この評伝を執筆していったのではないでしょうか。
 
 このように考えると、長英が何を考え、何を著していったのか、その文筆家としての発展が重要な究明事項になっていくことは、俊輔における必然の道筋になっていったのではないでしょうか。

 長英は、牢屋のなかで決して萎えることもヘタレ込むこともなく、堂々と牢名主となって、自分の本懐を遂げていく道をたくましく歩んでいったのでした。

 そして、5年が過ぎた、ある日に火事が起こりました。

 この火事が、長英の運命を、さらに変容させていきました。 

 次回は、「逃亡者長英」の姿と運命にさらに深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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シラン