頼りの「光マイクロバブル入浴」

 先週の月曜日から木曜日まで、半徹夜の報告書づくり、そして日曜日の追加文書の作成を終えて、昨日は、ようやく、このブログ書きに戻ることができました。

 この間、私の心身力を支えてくれたのが、光マイクロバブル入浴でした。

 根を詰めて頭を使うと、それだけ疲労が増えますが、今回は、その記述が途中から楽しくなって、ストレスを覚えるまでには至らずに、どんどん筆が進んでいきました。

 結局、報告書の最終版はA4版で43ページに達しました。

 1ページには約1500字の文字が埋まっていますので、合計で約6万字になりました。
 
 「たくさん書いた」ことはともかくとして、その研究開発における充実度が、この量に幾分か反映されているのではないかと思います。

 前回の記事に認めたように、このような荒業は、いわば「戦闘モード」に入らないとやってのけることはできません。

 そして、そのモードを力強く支えているのが、光マイクロバブル入浴なのです。

 その意味で、この入浴は「頼りになる」、私の味方なのです。

 さて、前記事において、光マイクロバブル入浴において、1)光マイクロバブルが「体内に及ぼす作用」と、その作用の結果として、2)身体から「抜け出す」、あるいは「出ていく作用」がありうるか、という問題提起を行いました。

 これまでは、この1)に関することに焦点を当てて探究してきましたので、2)については、そこまで考えが及ぶことはありませんでした。

 それは、1)において、その重要な特徴が、毛細血管における大幅な血流促進が起こることにあり、それによって、さまざまな身体的改善がなされることが非常重要な現象として発現していたからで、そのことに注目しすぎていたからでした。

光マイクロバブル入浴のなかで

 これは、「木を見て森を見ず」、「鹿を追って山を見ず」の諺(ことわざ)によって表されています。

 この2)の視点とは何か?

 そのことの重要性に、光マイクロバブル入浴のなかで気づきました。

 それは、皮膚表面に光マイクロバブルが多数付着していたことでした。

 この現象は、かなり前から観察されていましたので、それが、どのような作用効果をもたらすかについて興味を覚え、その究明を行ってきました。

 その結果、光マイクロバブルは、大量に皮膚表面に付着するが、それが血流促進を起こすわけではなく、皮膚表面の汚れの洗浄に役立つ、そして負の電気的な知覚神経刺激作用をもたらすことが明らかになっていました。

 じつは、その究明は、そこまでに留まっており、そこから、さらに一歩踏み込んで、その負電位の知覚神経刺激作用が、身体的に何をもたらすかについての探究ができていませんでした。

 これに関連して、この電気的な知覚神経刺激作用が、ヒトの細胞レベルにおいて、どのような強弱、具合を有するのか、に関しても、これまでの評価方法を変更する必要があることも指摘しておきましょう。

 さらに、光マイクロバブル風呂の出浴後に感じる、すばらしい爽快感にも、そのことが何か関係しているのではないだろうか、と感じていることにも注目しておく必要があるのではないか、そう直観的な思いが浮かんでいることにも触れておきましょう。

 これらは、今のところ、単なる仮説にすぎませんが、その指向に基づいて、コツコツと探求を重ねていると、それが、あるところまで積み重なったところで、急に目の前の視界が開けてくることがあるのです。

 その意味で、光マイクロバブルの皮膚表面への吸着現象について、より深く、より系統的な探究を遂行していくことにしましょう。

 やや硬い話になってしまいましたが、このようなことを考えながら、今日も、ここよい光マイクロバブル入浴を楽しむことにしましょう(つづく)。

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マリーゴールド