なぜ、晩年になって長英の評伝執筆を? 
 
 この優れた評伝を読み進めているうちに、この疑問が湧いてきました。

 おそらく、それには深い理由があったのではないか?

 そう思いながら読むと、ますます、この評伝をおもしろく感じ、どこかで、その動機がわかるのではないかと推測しています。

 さて、この評伝の初めには、高野長英が誕生した今の岩手県水沢市を中心にした地理と文化の状況が詳しく解説されています。

 当時の水沢伊達家は、仙台の本家伊達藩とは、相対関係を有していました。

 伊達がそうであれば、水沢はこうだ、という具合に、伊達とは異なる個性を大切にして、なにかと張り合う風土が形成されていました。

 また、地理的には、仙台よりもかなり南にあり、気候もよく、農作物や果物が豊かに生産されていました。

 すぐ南は福島県であり、ここでは桃が有名であり、どちらかといえば、南東北の拠点が水沢だったのではないでしょうか。

 先の東日本大震災の時に、私どもは何度も、この水沢を訪れました。

 じつは、海で実験を行った大船渡湾周辺では宿舎を確保できなかったからで、水沢だったら確保できるかもしれないといわれたからでした。

 今でも、鮮やかに思い出すのは、その水沢駅に飾られていた多数の風鈴です。

 夏の風に、その風鈴群がさわやかな音を奏でていました。

 「そういえば、ここは高野長英の出身地だったのではないか?」

 その記憶が蘇ってきましたが、その時は、その震災復興のプログラムを実行することで頭のなかが一杯になっていました。
 
 その鮮やかな風鈴の思い出が残っている水沢において、この評伝の作者鶴見俊輔が注目したのは、この伊達水沢家の伝統と進歩性でした。

 古くは、奥州平泉の藤原鎌足の流れを有し、伊達の支配下においては、キリシタンの布教が盛んに行われた地でもありました。

 直接的には、伊達政宗が一時期、このキリシタンを中心にして南蛮貿易に興味を示し、部下を欧州に派遣したこともあり、その庇護のもとで、この仙台と水沢が、その布教活動の中心地だったのです。

 その後、徳川家康のキリシタン禁止令に基づき、正宗のおひざ元では、それが厳しく取り締まれたのですが、その取り締まりが、水沢に及ぶには至っていませんでした。

 それゆえに、キリシタンの宣教師たちも、その水沢を中心にして活動をしていました。

「ペトロ・カスイ岐部」
 
 その一人に、「ペトロ岐部」がいました。

 本名は、岐部茂勝(きべ しげかつ)であり、1587年にキリシタン大名大友宗麟の重臣であった父と宇佐神宮の仕えていた母の間に生まれました(父母共にキリシタン教徒であった)。

 かれは、「ペトロ・カスイ岐部」とも呼ばれ、安土桃山時代から江戸初期にかけてキリスト教(カトリック)司祭として、国際的に活躍された司祭の一人でした。

 ここで、「岐部」の由来について付加的な説明をしておきましょう。

 もちろん、本名の姓が「岐部」であったことが、その第一の由来ですが、じつは、かれが生まれた地名が「岐部」であり、その傍には「岐部神社」がありました。

 その地は、国東市国見の「岐部」であり、ここには、かれに因んだ記念公園があります。

 かれは、熱心なキリシタン教徒であった父母に育てられ、その教徒として立派に成長していきました。

 27歳の時に、それまで布教活動を続けていたマカオを追放され、3人でローマを船でめざします。

 しかし、その途中のインドからは、一人になって徒歩で一路ローマに向かったのでした。

 日本人としては、初めてエレサレムの地を訪れた人としても知られており、「ローマまで歩いた不屈の人」とも呼ばれています。

 言葉も風習も異なる未知の国を歩き通したのですから、まさに、この称号にふさわしい人といえます。

 艱難辛苦(かんなんしんく)に耐えながら、それを自分を洗練させる力に変えていくことができた人物だったのでしょう。

 これに作者の鶴見俊輔は、当然のことながら大いに注目して、その水沢を中心にした命がけの布教活動がなされたことを示したのでしょう。

 周知のように、かれはキリスト教徒であり、ここにぺトロ岐部との共通性があります。

 その岐部は、あまりにも厳しい弾圧によって信徒たちが命を落としていく様を見て、自ら自首していきました。

 死を覚悟しての決意でした。

 最後は、江戸の伝馬町牢屋に送られ、そこで厳しい拷問を受けました。

 それでも、かれは、少しも屈せず、最後まで持ち「前の洗練された不屈」を貫き通しました。

 ここで2つ目の注目点は、ぺトロ岐部が命を亡くした牢屋が、高野長英が入っていたところであり、いわば、ペトロ岐部は長英の先輩牢屋主の一人だったのです。

 おそらく、長英は、その大先輩のことを耳にしていたのではないでしょうか。

 そのペテロ岐部が、水沢の地で命を恐れずに布教活動を行っていたこと、そのかれが、拷問によって同じ牢屋で虐殺されたことは、長英の不屈さに少なからずの影響を与えた可能性があるように思われます。

 その偉大なキリスト教徒が、私の棲む国東市の国見地域にあるのですから、これは励みになりますね。

 いままで、かれのことをよく知らなかったので、大変申し訳なく思っています。今度、時間を作って、かれに会いに行きたいですね。

 そのペテロ岐部が、6年間にわたる布教活動の最後の地が水沢であり、ここを拠点にしていたのがキリシタン領主後藤寿庵でした。

 かれは、キリシタン禁止令に基づく取り締まりには決して屈しなかったそうです。

 また、当時の東北において、キリシタン教徒になっていた日本人は2万人を越えていたそうで、ペトロ岐部らにとっても大切な布教地だったのです。

 私は、東日本大震災の際に、この東北の人々と接して、人柄がよくて優しく、鷹揚な人々が多いことをしりましたが、おそらく、ペトロ岐部らも、その人柄に接して布教活動に努めたのだと思います。

 長英は、幼き頃に高野家へ養子に出されますが、もとの姓は後藤です。

 この後藤の祖先は平泉の藤原鎌足であり、上述の後藤寿庵は、歴としたキリシタン領主であり、長英の祖父と親父は、この後藤家の流れをくむ者たちでした。

 長英が生まれた水沢は、キリシタンが多数存在していた自由で進歩的な土地柄だったのです。

 もう一つの注目点は、作者の鶴見俊輔もキリスト教徒という共通性を有していたことです。

 かれも、ペトロ岐部の不屈の精神を理解し、その生き方を学んでいたのではないでしょうか。

 このようなキリスト教文化が形成されていた水沢で、高野長英は、伊達家の家臣であった後藤摠介実慶(そうすけさねのぶ)の三男として生まれ、9歳のとき父実慶が死窓次男坊として高野家の養子となります。

 この高野家が医者の家系であり、後藤家の兄とともに医者になる勉強と修行を重ねていったのです。
 
 次回は、この兄弟が江戸に赴いて苦労しながら生活していくなかで、長英が鍛えられていった様に分け入ることにしましょう(つづく)。

retasu


終わりを迎えたグリーンレタス(GFH3)