あなたはもう、忘れたのかしら

 これは、大分県杵築市に定住されている南こうせつさんの名曲『神田川』の出だしのフレーズです。

 この名曲は、電話で、その歌詞を聞きながら、わずか15分で作曲されたそうです。

 貧しい男女の悲しい恋愛を謳ったメロディーは、私の学生生活の心のなかまでよく沁み込んでいました。

 「赤い手拭いマフラーにして、小さな石鹸カタカタ鳴った」

 このような経験もしました。

 当時は、手ぬぐいがマフラー替わりであり、そしてシャンプーという気の利いたものはなく、頭も身体も石鹸で洗っていましたので、それがすぐに無くなりました。

 また、その石鹸は石鹸箱に入れられ、歩くたびに薄くなった石鹸が揺すられてカタカタ鳴っていました。

 そして、最後の次のフレーズが若者たちの心を捉えたのでした。

 「若かったあの頃、何も恐くなかった。ただ、あなたのやさしさが恐かった」

 身が定まらない、貧しい生活を余儀なくされていた若者たちの「やさしさ」を怖がる機微の心境がみごとに反映されていました。

 これが世に出たのは1973年、丁度、オイルショックが起き、狂乱物価で世の中が騒然となり、トイレットペーパーやインスタントラーメンが店から無くなって難儀の学生生活を過ごしていたことを思い出します。

 この時期は、高度成長が一息吐いた頃であり、日本社会は、この二度のオイルショックを乗り越えて黄金の80年代を準備していました。

 それらは、ニコンのカメラF2(1971年)、ホンダのCVCC(1973年)、ソニーのウォークマン(1979年)など、日本の技術水準が世界に注目され始めたころでした。

 寮や下宿で過ごした生活の中には、テレビや冷蔵庫、電話機はなく、トイレは共同、風呂は数日に一度入るということが普通でした。

 クラスのなかでも自動車を持っていた友人は一人だけであり、それを持たない生活が普通でした。

 それゆえに、当時の若者たちにとって「もの」への憧れは強く、「就職して車を買う」ことを夢見ていた友人もいました。

          ものづくりの先輩たち
 
 そのころまでには、優れた「ものづくりの先達」が幾人も輩出されていました。

 二股ソケットを作った松下幸之助の「松下電器産業」は、「明るいナショナル」というテレビコマーシャルを流していました。
 
 かれは、兄弟が、一つしかない電灯を奪い合って喧嘩している様子を耳にして、二方向に電灯を照らせばよいと、ひらめいたのでした。

 かれの賢いところは、それをすぐに自分で製作したところにありました。

 生活の知恵が、新たな商品を開発せしめたのでした。

 若いころから身体が弱かったことから、午後からは、自宅で寝て、他人に任すことにおいても上手であり、いわば「お任せ名人」としても有名でした。

 しかし、一方で困った時こそ、不況の中でこそ企業は頑張るべきである、チャンスだと思って前に進むべきである、といい続けたのでした。

 そのかれが生きていれば、「コロナに負けるな、むしろチャンスが到来したと思え!」と強調されていたでしょう。

 コロナで「へたり込み」、「諦めて何もしない」企業家たちは、これを聞いて、どのように思うのでしょうか。

 「あなたはもう、ものづくりの大切さを忘れてしまったのではないか?それで日本は、やっていけるのですか?」

 (つづく)。

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国東の鬼の面