晩秋ノ記
 
 2021年も、残り1カ月余になりました。

 静かな晩秋の朝、雲一つない快晴にここちよさを感じ、南側の窓のブラインドを開けました。

 南国の暖かい陽光が、キーボードの上まで差し込んでいます。

 前庭を覗くと少しの風もなく、植物たちが、この陽光を楽しくじっと受容しているようです。

 今朝は、朝飯前に、アグリの一仕事を終えました(詳しくは別稿で)。

 最近は、自分の齢に抗して、よく身体を動かして作業を行っているせいでしょうか、より好循環の動的平衡が成り立っているようで、健康を感じています。

高専「400校構想」

 さて、この論考の契機は、名著『失敗の本質』に刺激を受け、それを、他のテーマにおいて創造的に探究してみたら、どのような展開が可能かを考えてみたいと思ったことにありました。

 そのために、最初の具体的テーマとして高専を選びました。

 その理由は、高専が社会に非常に敏感に反応する特徴を有していることにあります。

 それは、単に、一つの高等教育機関の問題に留まらず、わが国における技術者教育・養成にまで関係し、さらには、技術革新(イノベーション)にも波及していく問題でもあるからです(これらについては、前記事においてより詳しく論じていますので、それをご参照ください)。

 本論考における、最初の切り口は、「高専における自己肯定と自己否定」問題に関することです。

 周知のように、労働力不足における産業界の強い要請に基づいて、高専は1960年代初頭に設立されました。

 以来、今日まで60年余の年月を経てきましたので、その歴史を語ることができるようになりました。

 当初の高専を成立させた基本骨格は、次のようなものでした。

 ①15歳の中学校卒業生を受け入れる5年制一貫の技術者教育を行う。

 ②大学の準じた高度な専門性を軸とした実践的技術を学ぶ。

 ③卒業後は、中堅技術者として産業界に就職していく。

 この複線型教育機関の誕生は、当時としては非常に珍しいものであり、それは、本線側からは「鬼っ子」と呼ばれることもありました。

 じつは、この高専の設立前に、全国的に4年制の工科系の大学を設立させようとする動きがあり、それに対して「4年は長すぎる」という声もあって、それが、あえなく挫折したのでした。

 おそらく、産業界と文部行政のなかで、「それでは、どうするのか?圧倒的に労働者不足、技術者不足が起こるのではないか」という声が沸き上がってきたのでしょう。

 その結果、突如として湧いてきたのが「高専」だったのです。

 現在の高専の卒業生は約1万人です。

 当時は、その4分の1程度ですので、約50万人が不足するという予測に対しては微々たるものでした。

 「この程度の卒業生の量では、まったく足らないではないか?」

 こういわれたのは当然のことであり、その高専設立に関係した方々にとっては、高専の量的拡大問題が問われることになりました。

 「毎年10校程度を増やして、どこまで、それを続けるか?」

 これが深く問われたのでした。

 そんな需給ギャップのなかで、「高専を増やしていくのであれば、およそ400校は必要である」という意見が出てくるようになりました。

 もし、その構想が実現されていると、その卒業生の毎年の輩出数は、400校×5学科×40人=80000人になっていたはずです。

 もう一つの高専設置における特徴は、全国の県庁所在地ではなく、第二都市を中心に設けられたことにあります(ただし、県庁所在地の地方大学において工学部がない場合には、そこに設けられた。たとえば、松江高専、高知高専、大分高専などがある)。

 仮に、この高専の400校構想が実現していると、各都道府県には、9校の高専が設置されますので、第二都市のみならず、第十番目の自治体にまで高専が拡大していくことになります。

 たとえば、山口県の場合を考えますと、次のような地域への設置が有望です。

 1)宇部高専(設置済み)、2)徳山高専(設置済み)、3)大島高専(設置済み)、4)下関高専、5)萩高専、6)防府高専、7)岩国高専、8)山口高専、9)光高専

 大分県の場合は、

 1)大分高専(設置済み)、2)別府高専、3)国東高専、4)豊後高田高専、5)中津高専、6)日田高専、7)竹田高専、8)佐伯高専、9)臼杵高専

が候補として考えられます。 

 こうして、各県に9校も高専を設置するとすると、かなり多すぎるのでないかという意見が寄せられてきそうです。

 たしかに、層うかもしれませんが、じつは、それでも少ないのではないか、と別の説得力ある考え方も浮かんできますので、それについては、次回で深入りすることにしましょう。

 しかし結局は、その高専拡大、量産化政策は実現されませんでした。

 なぜだったのでしょうか?

 高専の数が、50そこそこに限られたことでから、その後は、高専の当局者自身が「マイノリティー」というようになり、そこには「少なすぎて、十分な力を発揮できない」という意味が含まれるようになりました。

 じつは、「小さくても、少なくても輝く高専」という概念が豊かでなかったのではないでしょうか。

 それは、マジョリティーの大学から、不慣れな高専にこられた当局者には、理解できなかったことだったのです。

 同時に、かれらには、高専が優れた機関であるから、それを量的に拡大していこうという指向が十分に豊かではありませんでした。

 おそらく、自分の高専のことで精一杯だったのでしょう。

 当時の高専校長の全国組織は、国立高等専門学校協議会(通称「国専協」)において、その量的拡大を行うことで、「マイノリティーからの脱出」を図ろうという声は、ほとんど出てきませんでした。

 また、その後においても、その拡大の指向は芽生えていません。

 「マイノリティー」を嘆くのであれば、そこから脱出を、どう実現していくのか、ここに知恵を絞ることができなかったようで、今から思えば、非常に残念なことではないかと思われます。

 小さくても、少なくても、光り輝く高専づくりが成就していたのであれば、それは、自ずと、その拡大を希求する声が、必然的に髣髴と生まれてきたはずです。

 次回は、なぜ、高専の量的拡大は困難だったのか、その深部に分け入ることにしましょう。

 また、同時に、その量的拡大による高専の発展の問題を、なぜ行う必要があるのかについても論究していくことにしましょう(つづく)。

mebae
芽生え