技術の30年問題

 21世紀を迎えて、現代技術はすさまじい速度で進歩を遂げています。

 これは、技術の栄枯盛衰といってもよく、近頃は、既往の技術が数年持たないようになっています。

 技術のみならず、それを生産し続けてきた大企業そのものが、その栄枯のサイクルのなかに陥ってきているようで、その典型が少し前のシャープであり、現在の東芝ではないかと思われます。

 前者は、創業者が文字通りのシャープペンシルを開発して大きくなっていった会社ですが、その創業者の遺訓には、シャープペンシルを開発したときの教訓が示されていて、身の丈を外れたビジネスを行うことが戒められていました。

 それは後者も同じで、かつての会長の土光さんは、イワシの丸干しを食べて質素倹約を体現されていました。

 こうして時代をリードしてきた大手電機産業が、目の前で陥落していくことは、少し前までは考えられなかったことです。

 この30年余、「今だけ、金だけ、自分だけ」に象徴される新自由主義の嵐が吹き荒れ、目先の利益のために安値競争に陥り、結局は、それにも敗れて自分の足元さえも失ってしまうことになりました。

 かつて、「製造業は永遠なり」と豪語していた姿は、どこに行ってしまったのでしょうか?

 ここに、「第1の30年問題」があるように思われます。

 昨今の新型コロナウイルスの感染対応に見られるように、今の日本は、もはや低開発国の次元でしか、深刻な困難に対応できなくなっています。

 その極めつけは、ワクチン接種の普及率の低さです。

 100人当たりの接種率は20.8人で、ようやく2割を超えたところです。

 世界において比較すれば18位であり、先進国G7では断トツの最下位です。

 世界からは、このワクチン接種率の低さについて、どう見られているのでしょうか?

 そもそも、なぜ、わが国は、ワクチンの自前の開発ができなかったのでしょうか?

 また、その世界的に著名なT東大教授を専門家会議のメンバーから外したのでしょうか?

 さらには、GO TO には巨額の予算を投じながら、なぜ、ワクチン開発にはわずかな予算で済ませたのでしょうか?

 オリンピックの開催までにワクチンを開発するからと豪語して、その延期を決めたのは誰でしょうか?

 お粗末ぶりにもほどがあり、情けないとしか言いようがありません。

 技術開発の動機は、世の中のニーズ(有用性、有要性)にあります。

 その今日におけるニーズにおいて、最も重大で、切実なものは、対コロナプロダクトです。
RNAワクチン
 
 その第1は、「mRNA」というコロナワクチンです。

 これは、カタリン・カリコ博士という女性の研究者によって開発されました。

 「m」とはメッセンジャーを意味し、このワクチンによって、体内に新型コロナウイルスの設計図を組み入れることになります。

 このメッセージが届くと、自ずと新型コロナウイルスに関する対応策が講じられるそうで、まことにすばらしいメッセンジャーといえます。

 彼女は、もともとハンガリー人ですが、研究を行っていたアメリカでは、「そんなことは、できるわけがない」、「何を考えているのだ」と彼女の考え方には賛同が得られず、ドイツへと移住せざるを得ませんでした。

 まさに、苦渋の40年のなかから生まれてきた画期的なワクチンの創製だったのです。

 彼女が味わった苦労、そして長い年月をかけた時間は、「今だけ、金だけ、自分だけ」とはまったく無縁のものです。

 その第2は、画期的なワクチンに続く、「重要な何か」を見出すことです。

 好ましくは、それがもっと簡単に、すぐに作れるもの、すなわち、オンタイム製品であれば、より好ましいのではないでしょうか。

 その探究のことを考えるたびに、よく思い浮かぶのは、児玉龍彦(東大先端研名誉教授)さんが仰られていたことです。

 「科学は情熱である。情熱がないと科学を続けることはできません。その情熱があればきっと、コロナに対抗できるものが生まれてきます」

 その予言の通りに、mRNAワクチンが登場してきました。

 これからも、その情熱のなかから画期的な「重要な何か」が生まれてくるのではないでしょうか。

 それこそ、それは偉大な人類の知的生産物になっていくにふさわしいものではないでしょうか。

 不毛のワクチン生産国になってしまった不幸を嘆くばかりでは埒が明きません。

 ここは、ぐっと辛抱して、わずかな光明でもよいから、一隅を照らす灯を点す必要があるように思われます。

 次回は、もう一つの30年問題に分け入ることにしましょう(つづく)。

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紫陽花(ナノプラネット研究所の前庭)