光マイクロバブルブレイクスルーの第二過程
 光マイクロバブルブレイクスルーの第一過程は、単に海水光マイクロバブル技術を適用することでした。
 その理由は、光マイクロバブル発生装置を海水において使用することで、光マイクロバブルの発生量が約5倍(現場での実測値)に増えたことにありました。
 そのために、光マイクロバブルの発生における絶対量が増加し、その効力が大幅に発揮できるようになったからでした。
 また、その現場海域における光マイクロバブルの発生は、潮の流れに沿って広く流動し、その影響範囲を広げることができるようになりました。
 例えば、広島湾におけるカキ筏の場合は、22m×11mの筏を2つくっつけていますので、潮の流れを見ながら、その上流において光マイクロバブル装置4セットを配置し、約4時間にわたって光マイクロバブルを発生すればよいことが解りました。
 また、三重県英虞湾の真珠養殖筏(80m×80m)においては、その中心部において発生装置を横断させながら同じく4時間発生させることで十分であることも判明しました。
 これらの方法は、その現場において実践的に見出したことでしたので、非常に説得力に富むものでした。
 そのころ、よく次のように、自分を言い聞かせていたことをよく思い出します。
 「海水において光マイクロバブルを適用するのであれば、少々の困難があっても、それを乗り越えることができる!」
 この、今となっては非常に思い切りがよかったと思われる「現場実験」において、じつは、光マイクロバブルの女神の微笑みに遭遇することができました。
 そのことを紹介する前に、マイクロバブルの発生における量的問題についてのエピソードについて触れておきましょう。
 それは、「マイクロバブルの濃度が高い、低い」という論調が現れたことでした。
 私は、1995年に、光マイクロバブル発生装置を開発したことを世の中に公表しましたが、その影響を受けたのでしょうか、その後、いくつかのマイクロバブル発生装置が出現するようになりました。
 当然のことながら、それらの装置は、私が開発した光マイクロバブル装置と比較されるようになりました。
 そこで出てきたのが、マイクロバブルの発生量が多い、少ないことに関して、「濃い、薄い」が問題にされるようになりました。
 この論調は、マイクロバブルの量において多い、少ないのみを基準にして、その良し悪しを決めていたようで、私が開発した光マイクロバブル装置は、その「少ない」、あるいは「薄い」方に区分けされていました。
 しかも、マイクロバブルを濃く発生させる方式の代表的装置としては「加圧溶解式」と呼ばれる装置が示されていました。
 この方式は、圧力をかけて気体を無理やり溶解させた後に、その圧力を減じて、その気泡核を膨張させる方式でマイクロバブルを発生させていました。
 これとほぼ同じ原理の泡発生方式が、ビール瓶の栓を抜くと、一挙に泡が出てくる方式でした。
 この方式だと、たしかに発生する泡の量は多いので、これを「濃い」といっても間違いではありません。
 しかし、それが「濃い」からといって、それによって優れた機能が発揮されるわけではありません。
 ましてや、「薄い」からといって、それが役に立たないということでもありません。
 ところが、この「濃い・薄い」は、単に現象を説明するという科学的な区分けを指摘するに留まっておればよいものを、それらが、その機能性において優劣があるかのような説明を付すようになってしまい、その区分けの意味すら喪失させてしまったのでした。
 この「濃い・薄い」の区分けには「おまけ」がありました。
 自称「ナノバブル研究者」のある方は、この白く白濁している濃いマイクロバブルを、事もあろうに「ナノバブル」と公的な場で主張していたのでした。
 それに対し、その聴衆者が、かれに、こう尋ねたそうです。
 「あなたがいう、その白い泡は、本当にナノバブルなのですか?あなたがいうように、それが本当のナノバブルであれば、その色は透明になっているはずですが・・・」
 この指摘に、かれは困ったそうですが、これ以上のことは、いってもしょうがないことですので、ここで止めておきましょう。
マイクロバブルの「量と質」問題
 ここで、私が、わざわざ、このような、そう高くない次元のエピソードを持ち出した真の理由は、そのような間違いの指摘がメインのことではなく、光マイクロバブルあるいはマイクロバブルの量ではなく「質」の問題が、そこには、すっぽりと抜け落ちていることをしっかり認識しておく必要があることにありました。
 すなわち、量において多い、少ない、あるいは濃い、薄いを問題にするのであれば、その前に、そのマイクロバブルが何に役立つのか、どのように優れた機能性を発揮できているのか、その「質」を問題にすべきなのです。
 ところが、その量を問題にする方々に限って、マイクロバブルの質の違いはどうでもよくて、マイクロバブルであればどれも同じだと、奇妙なことに、それをどこまでも「言い張る」のです。
 肝心なことは、それが多い、少ないではなく、マイクロバブルの数が少なくても、それが十分に役立つことであれば、何も問題にはならないのです。
 そして、それが役立つほどの優れた機能性を有するマイクロバブル(光マイクロバブルは、その有用性を持っています)であれば、それが多ければ多いほど尚よいのです。
 それでは、なぜ、このような質と量の本末転倒的な混乱が生まれるのか、そのことについては、どう考えたらよいのでしょうか?
 それは、マイクロバブルの質を究明し、その違いを明らかにすることには、より高次の難しさがあるからなのです。
 私は、その「濃淡問題」が出現する、はるか以前において、この区別を厳密に行うことの重要性に気づいていました。
ーーー おそらく、マイクロバブルの発生方式が異なれば、そのマイクロバブルが有する機能性も大きく違うはずで、その厳密な区別を行う研究をする必要があるのではないか!
 この認識は、次の2つの出来事において、より深まっていきました。
 次回は、それらの出来事に、より深く分け入ることにしましょう(つづく)。

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シラン