没頭のなかで
先週の後半あたりから、当面の、ある開発課題の研究に没頭していました。
この課題は、第一段階のサンプル材料づくりと第二段階の試験評価の2つに分かれています。
この間、そのサンプルを仕上げては、すぐに試験と評価を行うことを繰り返していました。
周知のように、いくら良いサンプルが製造できたと思っても、その評価試験の結果がよくなければ、何の意味もありません。
それゆえ、その評価試験を済ませるまでには、いろいろな考えが押し寄せてきて、そのあまりに不安を覚えてしまうことがよくあります。
しかも、その試験評価法が、すでに確立されたものであれば、それに従って試験を行えばよいので、その評価の基準も明らかであり、ある意味で気楽に対応することが可能です。
ところが、その試験法、評価法がないものだと、自分でそれを定めて確立していかねばなりませんので、そこには細心の注意と共に、その定めを可能にする鋭い洞察が求められるようになります。
本開発は、その後者に該当していました。
おまけに、私自身にとっても不慣れな課題でしたので、素人的接近しかできていませんでした。
それでも、徐々に没頭が進むうちに、何が問題で、どうしていけばよいのかが解ってくるようになりました。
しかし、その認識の深まりは、それが容易なことではなく、不安に満ち溢れたものであることを実感させていきました。
細部の真実
この不安の発生、膨張、そして、それを解消できるのかどうかという葛藤のなかで、時には偶然に、あるいは、徐々に、かすかな光明のなかで細部に宿る真実が見え始めるのです。
この真の正体は、いきなりすべてが顕わになるものではありません。
それをヒトの姿に例えるとすると、爪の先や髪の毛の一部が見えてくるだけであり、それらのほんのわずかな兆候を寄せ集め、総合することによって、その全貌を認知できるかどうか、ここに、その発見の醍醐味があるように思われます。
いきなり、最初から、ヒトである顔の姿が見えてくるわけではないのです。
今回、その細部に宿っていた「真実の女神」は、次のような過程を経て、その姿を見せ始めたのでした。
①いきなり、ぼんやりとですが、その輪郭の全体像が観えてきました。それは、非常に好ましいことでしたので「明るい兆し」だと感じ、俄然やる気を喚起させました。
②しかし、そこからが大変であり、より条件を厳密にしていくと、その焦点が逆に呆けてしまうという現象に導かれていきました。
➂そして、そこから、ふしぎなといいますか、理解に苦しむことが起き始め、行ったり来たりではないかと思ってしまいがちな現象が起こり始めました。
④そんな折、依頼主とのテレビ会議があり、その会話のなかでヒントを得て、がらりと条件を変えて実験を行うことをひらめきました。
それは、いずれ、その厳しい条件で行うこともあるであろうと思っていたことでしたが、その途中をすべてすっ飛ばして、相当に難しいであろうという限界に近い実験を行うことでした。
⑤はたして、それがよかったのかどうか?ここで、不幸が舞い込んできました。それまで使用していた装置が、予期せぬアクシデントのせいで故障しました。
⑥それを修理しましたが、どうもうまく作動せず、その修理よりは、新たな装置で行った方がよいと決断し、その再構築を行いました。
⑦実験的には、その決断が功を奏しました。そこで、上記の相当に厳しい条件を緩和し、その装置において適切な条件を設定して再度実験に挑みました。
⑧その作動ぶりを注意深く確認しながら、最初は手動で動かしました。そして、その順調稼働を踏まえて、自動運転に切り替えました。
⑨後は力勝負のみ、行けるところまで行ってみよう。あなたが簡単に正体を見せないのであれば、その衣を透かして観えるようにしてみましょう。
こうして粘っていると、まことにふしぎなことに、これまで気づかなかったことが、しだいに、いくつも観えてくるようになりました。
その第1は、女神の衣の模様がうっすらと観え始めたことでした。初めのころは、こんな模様はなかったはずでは?慌てて、それを確かめました。
かろうじて、その証拠が写真の一部に撮影されていました。
第2は、その衣のやや大きな縫い目らしきものが顕わになっていたことに気づきました。
それを縫い目だと思わずに、見過ごしてしまっていたのでした。
じつは、縦に並ぶ、たくさんの幾何学的模様の縫い目が、そこに観えていたのでした。
第3は、その足元の暗い部分に、きらりと光る小さな輝く物質が見つかったことでした。
これは、これまでどこにも無かったもので、まさに「小さくても輝く」ダイアモンドのような貴重なものを発見した気分になりました。
これは、女神の衣から擦り落ちたものではないかと推察しました。
第4は、その足下に液体らしきものを見出したことでした。
ほんのわずかな一滴のようでしたが、その足下の一部に濡れた状態の部分がありました。
この濡れは、大きな泉の在りかを教えるものなのか、それとも女神の涙の一部なのか、それは定かではありませんが、私が見逃すことができないひとつの証拠でした。
また、そこには、一滴の液体だけでなく、粉状のものも観察されました。
この粉状のものは、纏った衣服の周囲には存在していましたが、その足下にはなく、これが、その液体のなかに含まれていた可能性が認められました。
これが5番目の女神である印の「証拠」でした。
こうして5つの証拠が見出されました。
その一つ一つは、微々たるものですが、これが5つも重なって出てくると、その女神の実像はかなりしっかりと観えてきたといってよいでしょう。
その結果、この5つの総合化によって、その女神がやさしく微笑んでいることも明らかになりました。
5つの細部に宿っていた真実が、女神の微笑みを明らかにしてくれたのです。
私にとって、この女神との科学的遭遇は、こんなにうれしいことはありません。
それは、この未知との遭遇がもたらす、「重要な何か」を容易に想像できるからです。
第二次世界大戦の後は、アメリカを中心にして新たな文明が創造されてきました。
よくいわれてきたのは、そのアメリカで起きていることが、日本では、その25年遅れで起きている、ということでした。
戦後約75年が経過して、世界の覇権国アメリカにおいて、さまざまな政治経済、そして技術的構造物の劣化が急速に進んでいます。
それは25年の周回遅れの日本においても同じことであり、そこで壊れたものは修復していかねばなりません。
それを怠れば、私たちが悲惨な目に会ってしまうからです。
壊れたものを修復する、これには女神の知恵が必要になります。
今回の女神の微笑みは、そのことの大切さを教えてくださっているように思われます。
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